「日本、日本!」
 軍艦比叡からのラッタルから降りてすぐに駆け寄ってきたのは、身の丈も体躯も自分よりも一回りほど大きい西洋の青年だった。


 ここで会ったが百年目。盲亀の浮木、優曇華の華。


 国としての自分は常に相応の地位に位置づけられてきた。時に貴族身分であったり武士階級であったりその時代に応じたものだった。そして一般には国であることは広く知れていない。
 それ故に公務の際は士官同等、またはそれ以上の待遇で扱われた。周りは警備に囲まれ唐突に誰か近づいてこよう者なら不審者として取り押さえられる。
 はずだが。
 「日本久しぶり、会いたかった」
 以前会ったことがあるような口ぶりで警備の兵の中を潜り抜けてきた青年はそのまま日本に抱きついた。
 悲鳴ともつかない小さな声を息と一緒に飲み込んで日本は反射的に萎縮した。
 そもそも水兵達は、と青年の肩越しに見回せば直立不動のまま動かない。異常なしとでもいうようにこちらを見もしない。
 この青年から確かに殺意も悪意も感じられないが警備が動かないなど初めてだった。
 「日本?」
 呼ばれて視線をあげると、浅黒い肌の青年が腕は背中にまわしたまま、日本の顔を覗きこんでいた。
 ところどころハネた茶色い髪の毛に深い碧色の瞳、西洋人独特の高い鼻、長い眉が垂れ下がって不安そうにしている。
 「俺のこと、覚えてない?」
 正直西洋人の顔は見分けがつきません。そう言ってしまいたかったが途中でなんとか飲み込んで口を開く。
 半年以上も自国を離れて生活している為か頭がうまくまわらない。難破したエルトゥールル号の生存者を送り届けた帰り道、寄った国がここギリシャである。……知り合いは数多くいない筈だ。
 しかし自分は大和男児、これぐらいの難局乗り越えてみせますとも。
 「お、お久しぶりです。どうもその節はお世話になりました」
 ひきつった笑顔で日本が応えると相手の男は少し機嫌を悪くしたようで拗ねたように唇を尖らせた。
 「……日本」
 「あぁ、はい、スミマセン、ごめんなさい。覚えてません」
 日本はどうにも開国して数年経った今でも欧州人の薄い瞳に見詰められると弱い。
 居た堪れなくなって目を逸らす。大和男児といえども苦手なものは苦手である。
 「…ギリシャ。昔に、会ってる」
 小さい声が聞こえてくる。日本は視線を青年に戻して、凝視したまま数回瞬いた。
 「……え? あの、え? ギリシャさん? うそぉ」
 「嘘ついてない」
 ふるふると首を横に振りながら見下ろしてくるギリシャは、そういわれれば昔の面影を残している気がする。
 とはいっても一度会っただけで、しかも彼はとても小さかったので確証はないが。
 「あんな小さかったギリシャさんがねぇ……」
 昔に見た彼と今目の前に居る彼が結びつかなかったのは、自分の非ではないだろう。
 日本は心の中でそう自分を弁護しながら、ギリシャを見る。
 すくすくと育った彼はいつのまにかさっさと日本の背を追い越し、筋肉もつけていたようだ。
 親戚の成長を目の当たりにする年輩者の気持ちが何となくわかった気がする。感慨深いものがある反面、自分を顧みてすこし悲しい。
 「日本に見下ろされるのも、子ども扱いされるのも…イヤだったから」
 頑張って大きくなったよ、とギリシャがどこか誇らしげに微笑む。
 エーゲ海から潮のまじった風がふいて、彼の肩にひっかけただけの服を揺らした。
 つられて頬の筋肉が緩みそうになるが、日本ははたと気付く。今は部下達の目の前なのだ。
 考えてみれば部下がいる今、いつ上司が来るかわからないこの状況でいつまでもこうも密着されては都合が悪い。
 身体を捩ってやんわりと腕を外させて間合いをとる。
 「日本?」
 間合いをとったのに、なんでまた近づこうとするのか。
 掴むものがなくなった腕をのばしてくるギリシャに以前見たぬいぐるみを抱いていないと落ち着かないと我侭を言っていた外人の子供を思い出す。
 「ギリシャさん、あ、の、あの、それより私としてはあなたの国を、視察したいんですけど」
 骨ばった大きい手が頬を撫でるか、その直前かぐらいのタイミングでギリシャの動きが電源でも切られたようにピタリと止まる。
 「俺の国に興味、ある?」
 「え? ええ、勿論ですよ」
 嘘ではない。今は広く世界を知り吸収できるものは全て貪欲に取り込まなければ列強に押しつぶされてしまう時だ。
 窺うようにギリシャの顔を見遣ればその大きなガラスのような目をキラキラと輝かせて口元には笑みを浮かべていた。
 「アテネに案内する。そんで……俺の家も見て欲しいし、あと遺跡も、昨日やっとでてきたやつ日本になら見せてもいい。あと、日本の話聞きたい、俺も話したいこといっぱいある、それに」
 「ギリシャさん、待ってちょっと、待って下さい」
 ガトリング砲のように終わりが見えない言葉の羅列に日本が慌ててストップをかける。
 「アテネに向かいながら、ひとつずつやりたいことを整理しましょう? まだ時間ありますから」
 ね、と念を押すとギリシャは素直に頷いて日本の頬に添えていた腕を下ろし、手首を掴んだ。
 「え?」
 「行こう、こっち。本当は日本来てくれないんじゃないかって思ってた。トルコのとこだけ行くのかと思ってた」
 腕をひっぱられ、ひきずられるように歩きながら日本は言葉を濁す。そもそもコンパスが違うのか、ギリシャの一歩は日本にとっての一歩よりも大きい。
 「元々遭難者を送り届けるのが本来の目的って知ってたから仕方ないかなって思ってたけど……でも来てくれた。ありがとう、俺嬉しい。」
 「はぁ……あ! ちょ、ちょっと待って下さい!」
 諾々と流されるままに引き摺られていた体をなんとか押しとどめてギリシャの腕を逆に引っ張る。
 「どうしたの?」
 くるりと振り向いたギリシャが首を傾げた。
 「あの、上司に先に行くことを伝えておかないと……」
 国である以上、そして特別にとはいえ軍部に組み込まれている以上は行動は軍部の規則に則ったものでなかればならない。
 無断外泊などそれこそ精神注入棒で殴り殺される。
 後を見る。まだ軍艦からはそう離れていない。
 「大丈夫、俺の上司から…連絡いってる筈だから。日本は俺が迎えに行くんだって……駄々こねてきた」
 「へ、そ、そうなんですか?」
 ギリシャがこくんと首を縦に振る。
 考えてみればギリシャが近づいてきた際警備が全く動かなかったのは先に連絡がいっていたということか。
 「日本は何日ぐらいこっちに居れる?」
 「十日ぐらい……でしょうか、まだわかりません」
 連絡はもういいと判断したらしいギリシャがさっさと話題を切り替える。
 日本は一瞬目を見開いたが、すぐに話題転換にのった。
 「……トルコのとこには1ヶ月以上も居たのに?」
 その比較は一体何を意味するのだろうか。日本は疑問を頭の隅に追いやりつつもまた拗ねたような表情をする青年を見て曖昧に笑った。
 「本当は先月から本国の海軍大臣に早く帰って来いと再三忠告を受けているんです。どうかご理解下さい」
 「…………じゃぁ、今回は我慢する。来てくれてありがとう日本」
 二回目の感謝の言葉に日本は気恥ずかしい気持ちを抑えながらどこかまだ少年のような面影を残すギリシャを見た。
 こんなに育ったというのに、身長すら日本すら追い越してしまったのにまだまだ子供のようだ。
 変わらないのが嬉しいのか、何なのかわからなかったが不思議と胸の内から湧き上がる小さな喜びが笑みとなって溢れた。
 「行きましょうか」
 「うん」
 手首を掴むのではなく、今度はしっかりと手を握ってギリシャが少し歩幅を縮めて歩き出した。







アトガキ
エルトゥールル号遭難者を送り届けた後に何故かギリシャにも寄る日本。
海軍大臣から「早く帰りなさい」て来電してても無視。何故わざわざギリシャに寄ったのか不明だそうです。
ギリシャちっこい時に一回だけ日本と遭遇→再会の流れ。いつ会ってんだよとかツッコミはなしのほうこうで。