Hellenic

母の光



 母は偉大な人だった。長い時を経てヨーロッパ・アフリカ・アジアに及ぶ大帝国を築き上げ、そして様々な学問と文化を生んだ。多大な影響力と軍隊を持っていたが息子である俺を産んでからは衰えを見せ始め、ついにはオスマンの軍門に下りその栄光に満ちた歴史の幕を閉じた。生まれた頃の記憶はない、しかし母が死んだ時のことは覚えている。封鎖した筈の金角湾に軍艦が浮かび八方を囲まれたことを悟って戦意を喪った母の表情と、それを見下ろすトルコの趣味の悪い装飾具。物心がつくと同時に母は亡くなった。それ以前のことはわからない。ただ朧気ながらも母の栄華は印象深く残っている。
 母を亡くした後の人生は、そんな母の影をいつも追っていたように思う。トルコに占領されている間も、独立してからも、母の光だけを見て生きてきた。そして、今も、こうして必死に母の遺跡を発掘する理由の一つなのだろう。
 山のような土と草に囲まれた通路を歩きながら、並んで歩く日本を見ると非道く嬉しそうにしていた。彼は母の遺跡が好きである。招待すると必ず目を輝かせるので、それが嬉しくてついつい彼の好きそうな場所を選んでしまう。母の遺したものを真剣に眺めては写真に収める、そして隠しきれず笑みを浮かべる姿が好きだった。
 「日本……ダメ。……ここは……ハチがいる」
 「あ、は……うわっ」
 立ち止まろうとする日本の肩をそっと掴んで前進することを促した。目の前を羽音をたてながら蜂が数匹飛んでいく。
 「ハチアレルギーの人が……前に、刺されて……大変だった……」
 ぶんぶんと警告音のような羽音を聞きながら通路を通り過ぎる。蜂が怖いのか日本も大人しく肩を抱かれたままついてきた。
 通路を過ぎると今度は石畳と大理石の壁が見えてきた。白い大理石に青空は映え、合間に茂った緑の雑草すらも輝いて見える。発掘は途中で中途半端に土中に埋もれたままになっている蔦模様の入った柱の頭が何本も見えた。どこから入りこんできたのか、小さなトラ猫が二匹日陰でくつろいでいる。まだ3月だというのに日差しは強く、肌がじりじりと灼かれるような気がした。影になっている方に寄って台座(元は柱の一部だったが壊れてしまったもの)に日本と一緒に座った。
 「日本……本当に、いいの?」
 「ええ、勿論です。寧ろ我侭を聞いて下さってとても嬉しいです」
 「……そう……退屈したら、寝てて……」
 真面目に言ったつもりだったが、日本は冗談だと受け取ったようで笑い混じりに「いえ、見てますよ」と首を振った。
 見上げると深い青色に輝く爽快な空があった。湿気もなく、ささやかな風が肌を撫でる、やはり昼寝には最高の日だ。そこで3000年前の石畳に寝そべってのん気に鼻を鳴らしている猫が羨ましい。
 しかし折角道具も持ってきたのだし、日本からの期待に満ちた視線もあるので俺は作業を優先させることにした。愛用の移植ベラや手鍬、刷毛(どれも日本のホームセンターで数年前に買ったもの)を透明のビニール袋やバケツと一緒にリュックから出す。道具を腕に抱えて土から頭だけ露出している柱の近くで座り、一旦道具をバラバラと地に落とした。その中から移植ベラの柄を握って砂を掘り始める。掘ってはバケツに入れて、掘ってはバケツに入れて、バケツが一杯になったら不要な砂を外に放り出す。繰り返す。
 発掘というのは単調な作業であり、業火のような太陽の下での肉体労働であり、……しかし俺は嫌いではない。母の遺物を掘り起こしているという幸福感からなのかもしれない。だから同じ発掘作業でもスペインやイギリスやなどに行ったところでやる気はでないだろう。
 山のように盛り上がった土砂を切り崩すかのように掘っては捨てる。たまに当たる堅いものはただの岩だった。汗がじんわりこめかみに滲んでいたので手の甲でそれを拭う。黙々と掘り進めていると遥か天上で鳥が鳴いた。見上げると一羽の鳶が悠然と輪を描きながら飛んでいる。眺めるのはそれなりに楽しいが太陽が眩しくてまた俯いた。
 母は偉大な人だった。彼女の輝かしい功績は現在に至って尚世界中の人間達の、時には崇拝にも近い羨望を集めている。彼女の生涯に浪漫を感じ、没頭する人間もいる。
 立ちあがってバケツ一杯になった砂を遺跡の外に放り出した。生い茂った雑草の上にバラバラと落ちていく。振り返ると日本は飽きもせずに周辺の石畳や壁を写真に撮っていた。猫はまだ寝ている。俺は掘っては捨てる作業を再開した。
 母は偉大な人だった。何度も聞いた話である。哲学を芽吹かせ大王が権勢を誇り、名声と名誉を手中に収めた不世出の大国家。
 粗方掘り終わると大理石の柱が1本は割れて崩れてしまっていたが、2本昔の姿のまま立っていた。崩れていた一本の破片を集めてビニール袋に詰めた。家に帰ってから洗う分だ。ここからは刷毛で模様の合間に挟まった砂を落としていかなければならない。少しずつ、少しずつ不要なものを根気よく取り払う。
 母は、偉大な人だった。
 俺の生涯は母の光を夢見て生きてきた。それと同時にその影に隠れてきた。世界中で持て囃されるのは母の遺産で、決して俺ではなかった。母のようになろうと幾度かトルコに喧嘩を売ったことも、その憧れをイギリスに付け込まれたこともあった。偉大な母。彼女は俺を産んで、その姿をこの世から消した。後継であるに関わらず、俺はいつまでたっても彼女にはなれないでいる。
 発掘作業中、時折訪れる不思議な感覚が胸中を渦巻く。こうして大理石を見ているとふと母への愛情を再認識すると同時に何故か悲しくなることがある。無性に情けなくなって胸が痛んで顔を歪めた。頬を伝うものが血のように熱かった。指で拭うと透明な色をしていて、咄嗟に息を大きく吸った。
 「あの、ギリシャさん? 大丈夫ですか?」
 視界の端で狼狽の色を見せる日本が恐る恐る俺の顔を覗きこんでいた。その声に彼の存在を思い出して、そして衝動的にその華奢な体を抱き込んだ。腕を回すとストレートの黒髪から仄かに潮のにおいがした。彼は驚いて動揺の声を挙げたが抵抗する素振りはない。
 「ココロ、イタイ……デス。母さん……母さんが」
 ほたほたと涙が流れていく。言葉を紡ぐことに比例して涙が溢れていくような気がして喋るのを諦めた。よしんば己さえも理解できていない心情を吐露したところで何になるというのか。セラピーなど日常から猫を触っているから十分だ。
 日本も問い質そうとはせず母親が幼子にするように、とんとんと、俺が泣きやむまで背中を叩いた。それがどこか落ち着くような、悲しくなるようなリズムで俺は更に悲しくなった。母が死んだ日のことを覚えている。俺を産み、トルコのせいで死んでいった。
 猫はまだ、母の時代に作られた石畳の上で気持ちよさそうに眠っている。







アトガキ
母親は大好きだけど母親コンプが強いギリシャさんの話でした。
ギリシャに関する歴史本が大抵「母さん時代凄いでしょ!凄いでしょ! え? 今? ……うん(´・ω・`)」といった感じなのと希土戦争の「トルコぶん殴ってカーチャン時代を取り戻すぜヒャッハー!」というのを見ると「母さんは大好きだけど今の俺は…('A`)ヴォオオオオオオ全部トルコのせい」にしか見えなくて困ります。

因みに日本は「お母様が恋しいのでしょうか」と全くの勘違いを起こしているよ!/(^o^)\
トルコさんなら多分ギリシャの気持ちを何となく理解してそうなんですが、「お前のせいだヽ(`Д´)ノウワァァァン!!」とつっかかられるのがわかってるから知らんぷりしそうなので同行者を日本に。
「ココロイタイ」というフレーズは昔読んだ本に「なんか日本語わからないのにギリシャ人ココロイタイっていうフレーズだけ覚えてる多いんだけど…」てあったので。