「あ、の、ですから……私の国の法律では」
 「ふーん。あ、そ」





 法の下に

 



 日本はしっかりと自分の手を握り締めながら革張りの豪奢なソファに浅く腰掛けていた。
 今は夏ではない。それどころかむしろ日本よりも寒い土地の施設にいるというのにスーツの中のシャツは汗でぴったりはりつき、鼻の頭には脂汗が拭っても拭っても出てくる。頭は血が昇っていて暑いやら心臓がとにかく五月蝿いやらで、目の前で涼しい顔をしている最近隣の列強国が憎らしい。
 ロシアはテーブルを挟んだ向かいの一人掛けチェアに深々と腰を下ろし、その背凭れに有り余る巨体を任せていた。
 腹の奥が重い。外部的精神圧迫がやすりで鉄を摩るように確実に自分の神経をひしひしと削っていく。
 「ロシアさん、お願いします、聞いてください」
 「聞いてるじゃない」
 彼が不機嫌なのは火を見るよりも明らかだ。半目で見下ろしてくる様はいかにも威圧感がある。
 ロシアが怒るのは無理の無い話であった。寧ろ日本がロシアの立場であったなら怒髪が天を差してもおかしくない。
 憲法を発布し近代化の扉をノックしたばかりの日本と世界の5大国に数えられるロシアは地理的に近しいことから緊張状態に陥っていた。というよりは、日本が一方的にロシアの南下政策を怖れていた。
 植民地にされれば国にとって未来がないのは世界を少し見渡せばイヤというほどに理解できる。だから日本は植民地化だけは避けようと必死だった。
 もしここでロシアが適当な難癖をつけてきて戦争状態に入ればそれこそ日本が危うい。相手は世界の憲兵と称される国土も軍事力も比べるのがイヤになるほどの大国なのだ。たかだか2年前憲法を発布したてのひよッ子が勝てる見込みはない。
 だからこそ友好状態を築こうと彼の皇太子を招待し、日本の各地を観光してもらう予定であった。
 そういえば今の自分の体調はあの時とよく似ていると日本は思う。あの時、警邏の一人が皇太子に斬りかかったという知らせを聞いた時と慨視感を覚える。
 結局誠心誠意謝罪をし、事なきを得たのはほっとしたが前門に虎後門に狼一難去ってまた一難、今度はその警邏への処遇についての問題が降りかかってきた。
 「ですから、私の国の法律では自国の皇族以外に危害を加えても最高で無期懲役にしかならないんです」
 「あ、そ。君ももうちょっと頭のいい子だと思ってたんだけどね」
 「法治国家な以上、法を遵守しなければなりません」
 話題が延々とループしている。
 ロシアが自国の皇太子を斬った男なぞ死刑を望むのは至極自然なことである。
 しかしだからといって日本は今近代化を歩んみ始めたばかりなのだ。ここで法を無視すればそれこそ野蛮な未開国とみなされる怖れがあった。
 汗ばんだ手をさらに強く握り締める。切ったばかりの爪がぐいぐいと肉に食い込んだ。
 「……ま、君んとこの法律だから仕方ないけれど。その結果は君の利益にはならないと思うよ?」
 「ロシアさん」
 「今すぐに戦争、はヤメておいてあげる。鉄道もうちょっと伸ばしたいし」
 よかったね、とにこやかに述べる列強は体を起こして体勢を整えた。
 日本はロシアから目を逸らさない。唇を噛んでじっとその灰色に近い蒼の眼を睨めつけていた。
 「もっと喜びなよ。国家存亡の危機を回避させてあげたんだから」
 「ありがとうございます」
 ゆっくり頭を下げる日本を眺めながら面白くないなぁ、とロシアが一人ごちる。

 「でも、ま、君がロシアになるのが先延ばしになっただけなんだけどね」




 背筋に悪寒が走る。日本は僅かに頬が強張るのを隠しながら席を立った。













アトガキ
大津事件その後。ロシア怒ってる超怒ってる。
それにしても大津事件って中学校の時に習った気がするんですがなんだかマイナーな事件のようですね。
知名度低いのかな?
うちでは珍しく日本が下手に出てますね。いやここでそりゃ強気なんかなったら即戦争なっちゃうんですけどそれこそ。