McSteamy!

長身で優しくて芸術家、でも発情期の猫





 視線で人は殺せるのではないか、ここ最近で頓に日本は感じるようになった。
 とはいっても殺意の視線を寄せられているわけでは断じてなく寧ろ良い方の感情が篭っているだろう。だがそれが問題だった。
 会議場の一角でギリシャは机に突っ伏している。大きな体を窮屈そうに丸めて机上で組んだ腕から顔半分だけ出しておねだりするような上目遣いで日本を追っている。特有の眉下の窪みに影が落ち表情は見えない。しかしその影の中からキラキラと光る緑色の瞳が日本の心臓に悪い。会議日程の間ずっとそれは続いた。
 もう昼休みは残すところ一〇分となってしまったがそろそろ耐えられそうにない。どうにか気にしないようにすることで四〇分耐えてみたが羞恥心に限界が来た。百里を行くものは九十里を半ばとする、そんな言葉がふと頭を過ぎる。ごめんなさい途中放棄します。
 そう心に決めて席を立つとそれに合わせて……それはもうスマートな所作で、初めから同行を示し合わせていたかのようにフランスが日本の肩に腕を回した。今まで隣の席でスペインと談話していた筈ではなかったのかと視線を移すとスペインは陽気に鼻歌を交えながら消しゴムを刻み始めていた。たまに会議中飛び交う固体の正体はアレらしい。
 フランスは日本の歩調に合わせながらわざと顔を寄せる。意地の悪い笑みを浮かべながらギリシャを一瞥する動作を見せた。
 「困ってんだろ?」
 声を低めて極めて愉快そうにフランスが言う。日本は会議室から出たあたりで肩をすくめてみせた。「なんのことやら」それでもフランスは離れることはなく小さく笑っていた。
 「わかってるくせにい、初心なフリしちゃって。カーワイ」
 フランスがおどけてみせると、すれ違う(女の)給仕達のクスクス笑いが聞こえてきた。彼は器用にそれにも愛想を振りまきまた日本に向き直る。
 「あいつ、日本に欲情してる。あれムラムラきちゃってる時の顔。茂みの中からじっとり獲物に狙い定める肉食獣ってあんな感じ?」
 「あー……」
 フランスが指を鉤状に折り曲げてライオンのような仕種を真似てみせる。日本は一瞬覚えた眩暈と隣を歩く男に八橋を投げつけたくなる衝動を振り払った。当のフランスは何を思ってか「菊は聡い子だ」などと抜かしつつ日本の小さい肩を撫でている。
 「それとも長身で優しくて芸術家、おまけに俺の次くらいに整った顔立ちの筋肉質でセクシーな日焼け男はお菊様には不満ってか? じゃぁーもう日本のご期待に沿える美青年は世界中で俺しかいねーな」 
 「隙あらば口説こうとする貴方のスタイル、どうにかなりませんかね。いつかひねりますよ」
 「痛い痛い痛い痛い! もう俺の皮膚ひねってるよね!?」
 「つねっていると言うんですよ」
 フランスが慌てて手を離し赤くなっている手の甲を必死に摩っている。同時に甲高い電子音が鳴り日本は息をついた。午後の会議再開の合図だ。腕時計のアラームを切るとフランスは既に来た道を戻ろうと先を歩いていた。初っ端のプレゼンは彼の番であった筈だが急ぐ様子は見られない。
 あと少しだからと自分に言い聞かせて日本もフランスの後を追う。
 「これから二人で消えたいな、なんて可愛くおねだりしてくれたらお兄さん乗っちゃうかも」
 無視して追い越した。

 後半の会議が消化された会議室では討論で燃え上がった熱気が溶け始めていた。周囲が議題とは関係のない話に以降し始めた頃、日本はギリシャの視線が未だに外れていないことを確認して無言のまま上着を脱いだ。『見られている』ことを第一に下手な行動をしないように、仕種の一つに気を配る。日露戦争の時も世界中が自分に注目していたのを知っていたので行動の一つ末端にまで神経を張り巡らせた。今はそれほど緊張する必要はないがそれでも人の視線の前では演じることに慣れてしまっている。
 日本は背筋を伸ばして上着と書類の入った鞄を抱え込む。表情は崩さずポーカーフェイスを維持。人の間をすり抜けて円卓を半周した。
 いち早く日本に察知したギリシャは日本と目が合うとすぐ立ち上がった。会議中何をしていたのか、机には筆記用具はおろか書類すら出されていない。だらしなくネクタイをゆるめボタンをいくつか外してしまっている。スーツもシャツも寝方が悪いのかそもそも体に合っていなかったのかクシャクシャだ。寝癖を気にしてか何度かハネた髪をいじって日本に向き直った。
 そのギリシャの表情を見て日本の今までの決心が鈍る。無表情のままツカツカと歩み寄ったというのにギリシャは花畑を見つけた少女のような純粋な笑顔を浮かべている。元来表情にバリエーションの少ない彼故に他の人、例えば感情表現の激しいスペインやイタリアなどとは表情の変化に雲泥の差はあるが今の日本にはそう見えた。とにかく目の輝きがキラキラしていて悪いことをしていない筈の日本の心臓に刺さる。
 「ギリシャさん」
 揺らいだ決心を取り戻そうと咳払いを一つ。ギリシャは日本の声を聞こうとしてか、単なるパーソナルスペースが狭いだけか間合いを詰める。微妙に増えた圧迫感を意識の外に置きつつ日本は尚も無表情を保った。
 「見るな、とは言いません。しかしあまりそうじっと見られると緊張してしまいます、ので……」
 「わかった。明日からは……じっと見ない」
 素直に頷くギリシャに日本は肩透かしを食らった気分になった。もう少し、何か駄々を捏ねるとか見てないと言い張られるかちょっとした討論を心配していたのに杞憂だった。ギリシャは落胆した様子もなく日本の手を握りこむ。
 「見ない……けど、今日は一緒に居て?」
 握った手を両手で覆うようにしてキスを落とす。上目遣いに見上げられてふと先ほどフランスが言った『整った顔立ちの筋肉質でセクシーな日焼け男』のキャッチコピーを思い出す。彼の少しだけ日本より高い体温が手にじんわり伝わってくる。だらしなく露出する胸元から見える鎖骨に土木作業に慣れた無骨な指、捲られたシャツから伸びる筋肉で硬そうな腕と紫外線を浴びた肌、一瞬胸の奥で湧いた邪念に日本は思わず手を引いた。ギリシャは気にする様子もなく硬直する日本の耳元で二、三言呟いて日本を置き去りに会議室からさっさと出て行った。
 まだ温かい手を開くと皺だらけの紙切れが一枚、乱雑な文字でホテルの名前と部屋番号が書かれていた。後で来いということだろう。流されて部屋に連れて行かれて免罪符を作るよりも自分の意思で行動を決定づけろということだ。言い訳という退路を断つつもりらしい。ギリシャのことだからそこまで考えていないかもしれないが日本の心理は赤や黒や緑の思考がマーブリングのように混ざって混乱していく。頭が痛くなってきた。
 「遺跡大好き坊ちゃんもキザったらしい手を覚えたもんだねぇ」
 やはり自然な所作でいつのまにか日本の後ろに立っていたフランスがギリシャの置き土産を眺めながら苦笑する。日本は紙切れをぎゅっと握ってポケットの中に押し込んだ。
 「フランスさん、私今日一日なら消えちゃいたいななんて……」
 「んー、魅力的なお誘いではあるけど、パス。ポーカーの代打はしてやれるけど発情期のデッケー猫をあやす役目は勘弁」
 まぁヤられてきなさいよ、そう肩を叩くフランスに日本は常備している八橋を投げつけた。





アトガキ
ギリシャよりもフランスが喋ってるほうが多いという謎。
多分ギリシャは何も考えてないよ!