ERTUGRUL

樫野崎にて その記憶





 それは一種儀礼めいた動きで彼は恭しく頭を垂れた。潮騒が遠くでさざめく中でトルコは目を細める。高くそびえた碑(いしぶみ)は今はその麓に様々な色をした花束で飾られている。森の中に突然建立された弔魂碑の入り口には赤い月章旗と日章旗を手々に持った少年少女が並んで立っている。橋のないこの孤島に住む数少ない小学生達は妙齢の女性の手振りに合わせて日本語の歌を唱い始める。正面左、トルコよりも離れた場所に参列する彼はぼんやり碑の向こうの空を眺めているようだった。彼の隣には『宮さん』が黒い礼服姿で姿勢良く立っている。六月三日の朝だった。


 数人が『宮さん』と読んでいた人物は、どうやらかなり地位の高い人間らしい。穏やかな気品を持ち合わせた彼はゆったりした足取りで先導の後についていく。式典が終わってからトルコは日本と話す機会を伺っていたが、それが丁度今らしい。お偉いさんが隣から抜けて息をついているのが見えた。
 「トルコさん、本日は誠にありがとうございます」
 彼はトルコに気づくと事務的で社交辞令的な口調で挨拶をした。少しだけ気に食わないが場が場だけに仕方が無いかと辺りを一瞥しトルコも仮面は取らずに手を軽く挙げて笑いかけた。周りに気取られないように少し小声にしながら内緒話を始める恋人のそれのように顔を日本に近づける。少しだけ後退する気配があったが気にせずに続けた。
 「できればこっから抜け出してぇ」
 アンタと。そう付け加えると彼は一瞬驚いたような顔をしたが誰にも気取られない程一瞬だけ『宮さん』の方向を見てわかりましたと呟いた。
 「10分後灯台で」
 そう言い残し彼は『宮さん』の方へと歩いていく。どうにもバーで行きずりの女をひっかける場面が想起されるが待ち合わせはホテルなどではなく色気のない古い灯台である。
 トルコは周囲で歓談する見知った顔のトルコ人達と日本人を視界の端にしてエルトグロール慰霊碑の階段前中央に立つ。自国の大統領がやる気を起こして建てたものだが立派なものだ。遠つ国で朽ちてしまった兵(つわもの)達へ黙祷をささげる為に目を閉じて胸に手を置いた。波が崖にぶつかる音が間断なく聞こえてくる。



 慰霊碑から数分歩いたところでそれまで森だった道の両側に野原が広がっている。その野原の中、道の脇にある人の背丈程の行幸記念碑を通り過ぎると灯台が沈黙して建っている。緑と青の風景の中白いそれだけが異質に見えた。軽い既視感に襲われながらトルコは屋外の螺旋階段を昇る。ぐるぐると短い階段を昇りきると小さな展望スペースに出た。海がよく見渡せる場所だ……灯台だから当たり前だが。
 先に白い手すりに寄りかかっていた日本がトルコに気づく。風に黒い髪を煽られながら綻ぶ様に微笑んだ。
 「悪ぃな、わざわざ」
 足を遅めて日本の横に立つ。ゆるゆると首を振った日本が岩場の目立つ海へ目をやった。
 「あそこは……うん。あっこに居ると余計なもん思い出しちまうんでな」
 「仕方のないことですよ」
 間髪をいれずに日本がフォローする。気遣いが嬉しくてトルコは装着したままであった仮面を取った。
 死に掛けた記憶、というのは実のところいくらでもある。つい最近までも現大統領が現れるまで瀕死だったのだ。それでも、五〇年経った現在でもトルコはこの日本の海で遭難したことを色濃く覚えている。波に揉まれる中、運良く岸に打ち上げられ助かったと思ったら目の前は切り立った相当高い崖。絶望感や悔しさ、こみあげてくる感慨に胸が占拠されたのを覚えている。やっとのことで這い登った先、灯りを頼りにたどり着いたこの灯台では目を丸くする日本に、もちろん彼の解しないトルコ語で喚いたことも記憶に鮮やかだ。訳のわからない言語で喚き散らす興奮した異国人、それも怪我だらけで衣服も殆どない状態の突然飛び込んできた男を彼は彼の全力でもって介抱した。自分がもし救助される側でなかったのなら奇特な奴だと思ったかもしれない。彼は万国旗を持ってくるなどして必死にコミュニケーションを図ってくれた。
 「アンタで良かった」
 手すりに置かれた手を握りこむように左手を重ねる。日本は一瞬目を白黒させたが何か言い出す前にトルコは続けた。
 「助けてくれたのがアンタで良かった。ギリシャの野郎とかだと多分見殺しにされてただろうしなぁ」
 「今でもこうして親交を交わせることを幸せに思う」
 「嘘偽り無くお前さんのことが好きだ」
 日本の目がトルコから逃れようと逃げ場を探して動いた。首から昇ってきた紅が頬に達した辺りで今度は俯いて動かなくなってしまった。それでも手を振り切らないのは本心か遠慮か、トルコは少しだけ手に力を入れた。
 「所謂ラブかライクかは日本の都合の好い方で解釈してくれて構わねぇ」
 平生から曖昧を是とした日本は対応に困っているのだろう。石像のように固まった日本の握った手から血の気が引いていくのを感じた。
 コンドルが上昇気流に乗って何度か旋回した後、日本がやっとこちらの世界へ帰ってきた。溺れていた人間が水面に上がったときのように肺に息を吸い込んで顔を上げる。
 「大島港に戻りましょう。連絡船を逃すと本土に戻れなくなります」
 今度はトルコが押し黙った。
 回答しない、そういう方向で日本の中で決着がついたのかもしれないが話の切り替えが不自然で唐突すぎる。鳥の鳴き声と潮騒がざわざわと耳を打つ。
 「トルコさん」
 やや急いた口調で日本が余ったほうの手でトルコの袖を引く。反応しようと焦点を合わせると日本の頬に紅が戻っているのに気づいた。
 「……察して下さいよ。今晩はウチに泊まりますよねって意味なんですから……ここに置き去りにされたいですか」
 察せる訳ねぇ! そう叫びだしたいのを抑えながら今更に降ってきたような照れやら嬉しさやらでトルコは顔を覆う。そしてこの可愛すぎる爺さんには勝てる気がしないと心の内で何かの栓が抜ける気がした。
 






アトガキ
土日はしっとりした激甘なんだと思い込んでいます。
トルコさんは一歩退いた大人な愛情持った漢。だといいな。
あと自分から好き好き言うのは全然恥ずかしくないけど日本から愛情表現されると超照れるオッサンだよ。

時代設定は1930年代。ちなみに『宮さん』は先代陛下では御座いませんのであしからず。