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心の休まる場所


※『胴欲男と民族音痴』に少しリンク



 ギリシャは日本と接触するのに非道く安堵を覚えていた。
 膝枕を要求してはその上で腰に腕を回す、多少無理のある格好だというのにそれが一番好きだと彼は言う。初めこそギリシャ自身も亡き母を希求しての行動かと思案していたがいくら頭を捻っても深く記憶の中を探っても母にこんな不恰好な体勢で抱かれた記憶はない。ただ日本の手が頭を撫で、その指が跳ねた髪の下のうなじまで滑る感触が好きだった。仄かに香りのする生地に顔を押し当てて日本の細い腰が折れてしまわないように抱きしめる。
 「俺……今、すごく気持ちいい……日本、もっと…」
 「……なんか貴方が言うとやらしく聞こえるのは何故でしょうね」
 何が? 首を伸ばして見上げると日本は曖昧に笑いながら言葉を濁し頭を撫でた。時に幼子をあやすように背中を軽く叩かれることもあるがギリシャにとって睡魔と安心を誘引することに変わりない。まどろみのような心地よい感覚が胸のうちを広がっていった。
 目を瞑ると日本の柔らかな体温が指先から、布ごしの体からゆっくり伝わってきた。時刻を告げる時針のように一定のリズムを保つ心音が聞こえる。血液の流れや肺を出入りする酸素の音まで聞こえてきそうだ。意識が水底へと沈むにつれ日本のバイタルサインが感じられる気がした。ベッドで一緒になるよりも抱きしめるよりも深い繋がり。
 神話の中でアンドロギュヌスは両性を有していたという。しかしゼウスの怒りに触れその体を二つに裂かれる。それ以来人間は男と女に分かれたが元あった片割れを探すために生涯を費やし恋をするのだとプラトンは遺している。アンドロギュヌスのように元ギリシャと日本が同一の体であったとは先ずあり得ないが片割れを探す哀れな人間達の飽くなき欲求と同じ程にギリシャは日本を求めていた。

 意識がゆるゆると暗闇に堕ちていく中でギリシャは日本の声を聞いた。向こうから爪をカチャカチャと鳴らせて日本の飼っている犬が向こうから歩いてくる音がする。同時にもう一つ足音がして男の声がした。日本の鼓動が少し速くなるのを感じて、記憶はそこで途切れる。
 夢を夢と確信する時がある。ギリシャは日本の腰元に抱きつきながら思った。向こうで暖房器具が唸りを上げているのが聞こえる。日本の指は相変わらず頭を優しく撫でていた。四角い障子窓の外で雪がちらついている。「寒いですか?」日本の声がしてギリシャは否定した。これは夢かと聞こうと思って口を開くと、またそこで場面が終わる。
 唐突に終わるシーンとシーンの合間は刹那的でテレビのチャンネルが切り替わるように次の夢が始まる。しかし次も代わり映えはなくやはり日本に膝枕されてねそべっている自分がいた。視線だけ動かして部屋を見渡すと調度品が変わっているのに気付く。薄型テレビはブラウン管のものに、その下のDVDレコーダーはVHS機械に変わっていた。テーブルの上に開かれていたノートパソコンはない。ストーブもガス式のものではなくその箱の中で電気が煌々と赤く熱されていた。「寒いですか?」日本が聞いてギリシャはやはり否定した。
 今度は足元にタタミがないのを感じた。依然として日本の腰元に腕を回しながらギリシャは首を動かせる。部屋は狭くなっていた。窓はなくなり廊下に面した障子も消え閉塞感の強い壁と重厚なドアがあった。絨毯が敷かれ壁際には粗末なベッドが一つ。ソファは狭くギリシャは足を折り曲げてなんとかその中におさまっていた。ヒッ、と喉が詰まって息を小さく吸い込む。ヒッ、ヒッ、ヒッと何度か繰り返しギリシャは自分が嗚咽をしているのに気付いた。頬に滴が垂れる感触がする。日本の服に涙が落ちてじわじわと染みが広がる。日本は着物ではなく洋服だった。白いシャツが頬に当たる。何故泣いているのか判断付かなかったが止めることはできなかった。煤と泥と汗にまみれた臭いが鼻をつく。ギリシャは髪も服もどろどろだった。しかし、日本はギリシャを突き放す素振りはない。「大丈夫ですよ」優しい日本の声がする。「もう大丈夫」そう言って日本はギリシャの頭を撫でた。低い汽笛が鳴って一瞬だけそれまで唸りをあげていたエンジン音も穏やかな日本の心音もかき消された。

 「いいお天気」
 不意に日本が呟いてギリシャは瞼を開く。一瞬夢の続きかと思ったが日本の指が夢の中と違ってリアルに感じる。首だけ動かせば整然と掃除された日本の庭が暖かな日光に照らされ金茶色に光って見えた。眩い世界に目を細めていると日本がふと上を向いた。着物が擦れて微かな音としてギリシャの耳に残る。ギリシャは無言のまま塀の向こうに広がる青空をぼんやり見ていた。
 「平和ですねぇ」
 返事を求めない独り言を日本が呟く。
 ギリシャは夢の終わりをひきずっていた。覚醒しきれない頭で春めいた庭を眺める。最後の夢を考えていた。懐かしい記憶、初めて日本に膝枕してもらった日のこと。日本に命を助けられた時のこと。
 「に……っ」
 クシュン
 「おや、寒いですか?」
 日本が頭を撫でる手を止めてギリシャの顔を覗き込む。
 不思議な既視感を覚えながらギリシャは首を振った。






アトガキ
希日のほのぼの感は異常。