British Suit

お仕着せの



※病み注意

 カードキーをポケットから取り出して、既に明かりの消されたロビーを通過する。鞄の一角を占拠するアメリカからの、砂糖の味しかしないコーヒー缶(日本はこれを片手にもう一杯コーヒーが飲める)を今すぐ捨てたい衝動に駆られながらも重い鞄をなんとか両手に抱えた。昼間は客の談笑や忙しいながらもにこやかに愛想を振りまくポーターのおかげで気づかなかったが、エレベーターがやけに遠い。会議が終わった後も会食だ何だと老体に鞭打つどころか沼地に叩き落すような若者たちに連れ回され、眠気と疲労でエレベーターの端ででも寝てしまいそうだった。
 軽い電子音が十一階に着いたことを知らせて日本は目を開けた。目を瞑ることも危険に思えて慌ててエレベーターを降りる。最近新調したばかりのこのスーツも叶うならば皺にならないようハンガーに掛けて寝たい。柔らかいカーペットと明るい照明の廊下を歩いた。
 自分の部屋が見えてきた時、扉の前に立つ男が見えて日本は顔を歪める。部下か、さもなければ敵性国家の何かか(今の時代暗殺者やスパイやらがこうも堂々と待ちぶせするとは思いたくもない)考えつつ鞄を左手に持ち替える。ある程度の距離を保って、しかし近隣の迷惑にならないことを第一に男に声を掛けた。壁に背を預けて腕を組んでいた男が首を向ける。彼は日本の姿を上から下に眺めた後、侮蔑の光を湛えた瞳で笑いかけた。
「よう、遅くまでごくろうなことだな」
 口端を曲げるようにして笑うイギリスに日本は動かぬままにはぁ、と返事ともため息ともつかない息を吐いた。その笑顔にぞっと血の気が引いて頭が冷えるのを感じながらこちらに向き直る彼を眺める。今更になって珍しく気を利かせて日付が変わる前に解放してくれたアメリカを恨んだ。
 日本とイギリスの関係は現在複雑なものではない。友好国の一つだ。特に懇意にしていた時期もあったが一時の断絶を経て今の状態に収まっている。本気の殴り合いも経験したし、容赦なく降伏を叩きつけたこともあったし、逆に裁判にすらかけられたこともある。友好を誓って再会してから、当時のことはお互い口に出さないのが不文律であった。
 それでも、再会した頃から、日本はどことない違和感をイギリスから感じている。鏡の中のテレビを見ているような奇妙な感覚に陥るのだ。同盟時代にはなかったそれが何を意味するのかはわからない。ただの思い過ごしかもしれない。しかし日本は彼を苦手と思うようになっていた。
「あの、何かご用事でしょうか?」
「いや?」
 鮮やかなライムグリーンに砂漠の砂を混ぜたような不思議な色でイギリスは日本を眺めている。昼間見た時と同じハウンドトゥース柄の重そうなスーツ姿だが、それからは皺の一つ、汚れの一つも見出だせない。よもや彼が昼からこの時間帯まで何をして過ごしていたのかは知らないが、とはいえこんな場所にいる理由も想像がつかない。建前上の用事でもあるかと思えば軽く否定された。
 鞄を両手に抱え直してイギリスの様子を窺うが立ち退こうという様子は見られない。彼の前を通り過ぎ、すぐ隣にある扉を開けることも憚られて微妙な距離を保ったまま日本は思案した。忘れ物、などとバレバレの嘘を吐いてでもこの場所から脱出を図ろうかと思い至ったところでイギリスがゆっくりとしかし大股に歩いてきた。何杯煽ったのか、近づくごとにアルコールの臭いがツンと鼻をさす。このまますれ違いエレベーターに乗ってくれることを祈ったがやはりそうはしてくれないらしい。目の前で立ち塞がるように足を止めた。
「姿勢が悪い」
 見下ろす瞳が歪むのを見ながら日本は再度曖昧な息を吐く。昔から酒癖が悪く、暴れたり絡んだり一晩中同じ愚痴を繰り返したりといった姿は目の当たりにしてきたが今日は不機嫌な方向に酔っ払っている。この状態に陥れば何を言ったところで酔いが覚めるまで宥めることは不可能だ。先ほどまで傍らに寄り添っていた微睡みもどこかへ逃げてしまい、疲労だけが身体に伸し掛かってきた。ホテルの警備を呼べば摘みだしてくれるだろうが、一応は地位と付き合いのある相手に強くも出られない。やんわりとエレベーターの方向を教えるがそれも無視された。
「随分安っぽい生地だな」
 伸びてきた手にスーツの襟を掴まれて日本は身体を揺らす。鼻で笑われると共に貶されて体を退こうとしたが彼は手を離さず、無遠慮に引っ張っては裏地をチェックしていた。縫合が甘いだの色が悪いだのぶちぶちとケチをつけている。お前にはお似合いだ、などという皮肉まで加えて降ってきた。
「だが、」
 イギリスの左手が動いたので視線を動かせる。一瞬の思考の後、一度イギリスの顔を見て、その手にあるナイフを二度見した。柄の曲がったキャンプ用折りたたみ式ナイフだ。ホテルの廊下にはそぐわない攻撃力を持った道具に日本は息を呑む。両手で抱えた鞄をぐっと引き上げて心臓部だけは刺されないよう防御態勢をとった。刺されるような悪事をイギリス相手にここ最近働いた覚えはないが、酔っ払いを相手に理由や動機を探すのも馬鹿らしくただとにかく首を竦めて後退りしようとする。
 ぐ、と強い力で引き戻され目の前にナイフの刃が見える。今度は逆に重い鞄が邪魔になってナイフをいなすこともできず悲鳴めいた言葉を呑み込んで目を瞑った。痛みの代わりに解放感を感じて目を開けると、スーツのボタンがいくつか消えていた。次いで肩が重くなり、見れば掴まれた襟の内ポケットあたりからナイフが刺さっている。その柄を慣れた手つきで、テーラーが生地を裂くようにスーツ生地を斜めにざっくり切り裂いた。
「悪い、手が滑った」
 どう手が滑ったのか、日本はまだ命の危機を感じていたがイギリスは当然のようにナイフをポケットに仕舞う。ぱっくりと割れた日本のスーツを指で撫でて満足そうな、怖気の走るような明るい微笑みを見せた。
「エレベーターは? こっちだな?」
 自分の凶行をすっかり忘れたようにイギリスは廊下の先を指差して日本に道を聞く。ぼろぼろと崩れそうになる言葉を全て呑み込んで日本は無言のまま何度も頷いた。イギリスがエレベーターの扉の向こうに消えるのを確認して日本は縺れる足で走り、自室のドアノブを握る。何度もエラーを起こすカードキーに苛立ちながら六回目でやっと緑のランプが点灯する。滑りこむように部屋に入った。
 廊下と同じく無音の部屋で、日本はやっと息を吸う。何度か呼吸を繰り返した後、跳ねる心臓を抑えてもう使いものにならない惨状のスーツを見た。廊下のどこかにボタンが落ちているだろうが拾いに戻る気にはなれない。明日もまだ使う予定だったのにとやっと恨みに思う気持ちが出てきて、通常の思考回路に安心する。今日のことは交通事故にでも遭ったとでも思うことにしよう。ギリシャなどもその昔酔っ払いのイギリスにはひどい迷惑を被ったと恨み言を吐いていたし、彼の新しい酔っ払い伝説に運悪く居合わせただけだ。
 折角今回の会議に合わせて買った新品のスーツは駄目にされてしまったが、まだスーツケースに予備が一着ある。なんて準備の良いことかと自画自賛をしつつ部屋の電気を点けた。ベッドサイドやテーブルランプが一斉に灯り、床に転がったライトグレーを照らす。鞄を床に置いて日本はその傍らにしゃがみこんだ。鍵のついたスーツケースに入れていた、予備のスーツだったそれが無残にも刻まれている。日本は慌ててセーフティボックスを解除して中身を確認する。入れておいた書類や大きな札が無事残っていたので安堵した。スーツケースを見ると鍵穴にいくつも傷がついていてこじ開けた跡がついている。
 日本は立ち上がり不自然なまでに整然とした部屋を見回す。ベッドに見覚えのない平たい箱が置いてあることに気付いて日本はベッドの縁に座った。上品そうな白い蓋にはロゴもカードもついていない。ゆっくりと蓋を開けると紺色のストライプスーツが綺麗に折りたたまれていた。ご丁寧に白いシャツや品の良いネクタイまで一緒に梱包されておりジャケットの胸元にはHondaと刺繍まで施されている。
 同じ柄、同じ素材、同じネクタイに同じ形のシャツを一セットに着用していた時期がある。長らく愛用していたが流石に古くなってのと、上司からの苦言により十数年前それらは捨ててしまった。日英同盟締結の初期、イギリスに仕立ててもらったものだった。
 全て新品になって返ってきたそれらに寒気を覚えて、丁重に箱をテーブルに避けてから日本はベッドに潜り込んだ。何かに気付いてしまう前にさっさと眠ってしまうことを選んだのだった。




アトガキ
ヤンデレ男をください!!!とついったーで叫んでいた結果です。
「イギーのヤンデレはよく見かけるけど、一萬の書く英日ヤンデレってどんなんよ」とのことだったので書いてみたらご覧の有様だよ状態。
説明しないと多分誰もわからない状態なんですが、新しく用意されていたスーツは少し丈が短いです。1900〜20年台の身長に合わせて作ってあるので。
あんまり直接的なヤンデレ(監禁とかそういう)が書けないのでえらいわかりにくい病み方となりましたが傍目にこれ酔っ払っただけじゃねーのかっていうレベル。

英日のヤンデレは同盟期(通常期)に始まり、WWUでの断絶(拒絶)、終戦後(病んだまま仲直り・ヤンデレ)という3ステップなんですが、全部書いてたら何年かかんだよって話なので今回は病みだけ。
読み返すとイギリスが罵倒しかしていないぜ!