Lausanne

王者と狼



 がなり声が響いていた会議場は一発の銃声によって静まった。蜜色に塗られた漆喰壁に銃弾が薄い煙を上げながら埋まっていてトルコは慌てて射手の方へ視線を遣った。狙撃手はまだ熱の篭るライフル銃の銃身を分厚い手袋をした手で掴み、乱暴にその木製ストックを床に打ちつけた。こめかみには血管を浮き立ち、その灰がかった青い瞳には苛立ちというよりも明らかな怒りが見て取れた。
 「我輩はお前たちに怒鳴り合いをさせたいが為にこの地を提供している訳ではない! 会議は一時間休憩とする!」
 お前が怒鳴ってどうするんだと、二発目の弾を込めるスイスに向かって茶化す勇気はなかった。これまで大声を挙げて侃々諤々と議論――正確にはただの罵り合い――を続けていたので、トルコは喉が渇いて仕方がなかった。コップの水を一口飲んで辺りを見回すとフランスやイタリアなどはさっさと休憩モードに入っている。正面に居たギリシャは半目で睨んできたが「死ね」とだけ忌々しく吐いて席を立った。会議中も一言も発さずこれまで石のように黙って座っていた日本に向かって歩み寄り、構ってもらおうと隣に座って何か話し始めているのが見える。この間までの戦争で恩があるらしい、ギリシャはそれ以来日本にベッタリだ。会議が始まる直前まで寄り添い、休憩になれば日本の許へすっ飛んで行き、その日の会議が終わるとまた日本の傍へ行く。日英同盟の廃棄の期日が迫った今、イギリスの位置に取って代わろうとしているわけではないだろうが、明らかにギリシャは日本に執着している。カフェで水煙草を燻らせる好々爺のような表情をしている日本を見ると、腹の内に棲まう虫が金切り声を挙げた気がした。愛しさや苛立ちや恩情や憎悪が溢れる前にトルコはその部屋を出た。
 「一時間経っても頭を冷やせん輩が居たら我輩が頭をぶち抜くである!」
 スイスの恐ろしい忠告(とはいえ彼は本気だろう)を背中に浴びながらトルコは両開きの扉を閉めた。

 窓から見える冬のローザンヌは一面雪に覆われている。朝はどんよりした厚い雲から雪が降り注いでいたが昼過ぎになると太陽がチラチラと姿を見せ始めた。その微かな日光を受けてレマン湖は静かに煌いている。会議場として使っているこの城から臨む湖畔は美しく見えた。
 石造りの廊下をのろのろと歩いていると、前方でイギリスが壁によりかかってぼんやり湖を眺めていた。休憩を宣言された瞬間会議室から出払っていたらしい。無意識に舌打ちしてそのまま通り過ぎようと足を速めたが低い声で呼び止められた。
 「話がある」
 悪の帝国と話などしたくない。そう返してやりたかったがその悪の親玉が些か狼狽しているのを感じてトルコは応じることにした。
 イギリスは近くに居たメイドに言付けてつかつかと歩き始める。大人しく無言のまま後ろについて行き、促されるままに使用されていない部屋へ入った。クリーム色の壁紙とレモン色の家具が程よくマッチしているが、人気のない部屋の空気は冷たかった。中央にあるソファにイギリスと対峙する形になるよう腰を下ろしたが、暫くイギリスは口を開かなかった。
 程なくして先ほどのメイドが恭しく紅茶を二人分運んできた。薄い湯気が昇るカップを受け取ってメイドが出て行くのを注意深く確認してから、イギリスはやっとトルコの目を見た。
 「フン、しぶとい奴め」
 開口一番の憎まれ口にもはや怒りすら湧いてこなかった。イギリスに対しては沸点を通り越して既に寛容の湯は全て蒸発してしまっている。
 「どこぞの誰かさんはうちの国民の怒りを買うのが相当上手くてな。おかげ様で急激に制度をひっくり返せたんでぇ」
 そう言うと、俄かにイギリスの表情に兇悪な笑みが広がった。新緑のような瑞々しいイエローグリーンの瞳が獲物を捕らえた蛇のように爛々と綺羅めいている。
 「何だ、お前はまだ死なないとでも思ってやがんのか? 危機を乗り越えきったとでも?」
 「危機だと?」
 トルコはイギリスの瞳を見返しながら凄んだ。手にしている熱い紅茶を若造の顔にぶちまけたい衝動を何とか抑えて、鼻で笑った。
 「ギリシャの餓鬼とオスマン皇帝政府、ああ、あとインドのイスラムどももそうか……お前が後で操ってトカゲの尻尾切りした奴らが危機だってぇのか? あれ程度で俺がくたばるか、ばーろーめ」
 「ん? 操る? 何のことかさっぱりだ。悪いが俺は誰かを操れる程の策士じゃねぇしなぁ」
 列強の覇者は王者たる尊大な態度でしれっと言ってのけた。憎悪を秘めた笑顔で続ける。
 「それに俺の言う危機ってのは、お前の家を取り仕切っているのが狼だってことだ。犬畜生如きに政治が務まるか」
 「てめぇ、もういっぺん言ってみやがれ!」
 蒸発しきったはずの湯が煮えたぎるのを感じた。トルコは無意識に拳でコーヒーテーブルを叩き、立ち上がった。しかし、イギリスの緑色のネクタイを掴む寸前で思いとどまる。皮肉屋の口車に乗せられて手を出してしまっては浅慮なガキと同じになってしまうだけだ。
 「アレは英雄としても政治家としてもいっとう才能に秀でてらぁ。狼ってなぁな孤高で賢い生き物でぃ」
 拳を引きながら前のめりになった体を押し戻す。ソファがギシリと音をたてた。胸の中で張り詰めた琴線もキリキリと嫌な音をやてている。
 「手前ぇなんぞにくれてやる命はねぇよ」
 「そうつれないこと言うなよ。お前の土地も遺産もごっそり俺が貰ってやるっつってんだ」
 冷や汗の一つ見せずイギリスは笑った。嘲けりの篭った笑い声が、トルコの耳の底に生々しく張り付いた。
 「一歩でも足を踏み外してみろ。そこは奈落だ」
 「生憎だが」
 トルコは結局一口もつけなかった紅茶カップをそのままに、立ち上がってイギリスを見下ろした。
 「綱渡りは既に終えてんだ……後は狼が示す道を堂々と歩くだけでぇ。俺の心配するよりもお前さんは新しい友達を探した方が良いんじゃねぇか?」
 トルコの言葉に反応して、イギリスの視線が幾分も厳しくなった。非難がましく睨みつけてくる緑色の瞳に、トルコは今月に入って初めて心が晴れ渡るのを感じた。
 「じゃぁな、お坊ちゃん。同盟破棄の日にゃぁ世界平和に一歩近づくと、盛大に祝ってやらぁな」
 イギリスが何かを言う前にトルコは部屋を去った。閉めたドアの向こうから陶器の割れる音がして、トルコは益々気分が良くなった。イギリスが散々やらかしてきた仕打ちを考えればこの程度の挑発軽いものだ、トルコは上機嫌に鼻歌を歌いながら廊下を引き返していった。





アトガキ
時系列を整理すると
1922年12月にローザンヌ会議開始で、翌年8月に日英同盟失効。
ちなみにスミルナの避難民救出のアレは22年9月。

ここいら前後のトルコの歴史は激動してて面白いです。
この頃のイギとトルコがガチで険悪すぎてマジやべぇ。殺伐! 殺伐!
今までトルコのこと、落ち着きのないオッサンだと思ってましたが違ったわ。
周りが敵ばっかりすぎて落ち着ける暇がないだけなんだ……。