仕返す
レインコートは最近あまり使っていなかったのにまた使う気になったのは何故であったか。
ビニールのコート、それも頭の先から足先まですっぽり隠れてしまう合羽という代物は雨を防ぐにはとてもいい。服が濡れる心配はまずないし、傘では防ぎきれない足元までがっちりガードしてくれる。
しかしその長所をもってしてもどうにも気に入らない所がある。寧ろその長所故の短所というべきか。
汗をかいても、その逃げ場がまったくないところだ。通気性が全くない。
体温が上り発汗すればするほど衣服内の湿度は上昇の限りを辿る。おかげで着ていたシャツはベドベドと肌に張り付き熱気が篭る。篭った熱気によりさらに汗をかき…と最悪のループを起こす。
そして、今更ながらにその短所を思い出し日本は軽い自己嫌悪を感じていた。
冬でさえ雨合羽は先ほどのような不都合をもたらすというのに、何故自分は夏真っ盛りの今こんなものを着ているのだろうか。
雨も風流だと思ったのに今のジメジメとした雨合羽の中では風流を感じる余裕が生まれない。
帰ったらシャワーでも浴びて、汗疹の薬を塗ろうか。
「日本?」
目を上げると、暗い景色を眺めながら訥々と考えにふけっていた日本をギリシャが不思議そうに見ていた。
「さっきから黙ってるけど、俺なんか言った?」
先ほど髪型が気になるといっていた彼はマイペース気質のくせにこういう無言の場面には神経が細やかなのか、眉尻を下げ困ったように日本を見下ろしている。
気を使わせてしまったのかもしれない、と悪く思いながらも母親の機嫌を窺う子供のような彼についつい庇護欲に似た感情を覚える。
それは小動物や生まれたての子供を連想させるような感情で一種「かわいい」という形容に繋がっていく。
先ほど彼を「格好よい」と形容してから舌の根の乾かない内だというのに、と思いながらも傘を差しながらじっと見つめてくるギリシャを見ると仕方がないだろう、と自分を弁護してしまう。
「大丈夫ですよ、少し景色を見るのに夢中になってました」
湿気による不機嫌なんておくびにも出さずに言うとギリシャはそう、と一応納得した風に頷いてみせた。
よくよく見れば傘の差し方が悪いのか、先ほど髪の癖を気にしていた彼の服は既にところどころ濡れてしまっている。
「じゃぁ、おあいこ」
おあいこ? 日本が首を傾げる。頭頂に溜っていた水滴がボタボタと流れた。
「俺もさっき黙ってたの、日本見てたから」
抑揚に乏しい声で感情表現にも乏しい表情のギリシャはたまにとんでもないことを言う。
おかげで寿命がいくつ減らされたかしれないが今ではもう幾分か慣れてしまったものだった。
「はぁ、……そうですか」
気の抜けた声で息を吐くと同時に言うとギリシャはまた同じ表情のまま頷いた。
「日本の髪はツヤツヤしててキレイ、癖もなくて好き」
表情は乏しいくせに感情に素直な性格のせいか、言動に全て思っていることが表れるため日本としては据わりが悪い。
好意も嫌悪も八橋に包むのが日本式なのだ。慣れたとはいえ返答にはいつも困っている。
柔らかく謝辞を述べるとギリシャは立ち止まって傘をさしたまま日本と目線をあわせるように腰を屈めた。
至近距離からじっと見つめてくる碧に目を逸らす。
「い、いや、でもですね。私だって髪を乾かさないままに寝入ってしまい寝癖ができることもありますし」
「こういうのは……寝癖じゃない。日本の髪は真っ直ぐだ」
空は灰色い曇天で、景色は雨に霞んでしまっていた。暫し視線を泳がせていた日本だったがギリシャを避けて地面の模様を見た。
「そうやって恥ずかしがって俯く癖も……俺は好き」
カッと頭に血が昇る。出口まで塞がれた迷路を奔走するネズミの気分だ。今は体温の逃げ場がないのだから、ヤメてほしいというのに。
八方が塞がれて進退窮まっていると一瞬視界の端が歪んで、レインコート越しに腰を掴まれた。
カツリと雨に負けそうな小さな音の方向を見ると開いたままの透明なビニール傘がひとつ道の上に転がっている。
「ギリシャさん、濡れてしまいます」
「うん……」
大きくて暖かい手を日本の頬を撫でて、顎に手を添える。
唇を押し付けられてすぐに離れる小鳥の啄ばむようなキスが額、瞼、鼻、両頬、唇に降ってくる。
「帰ったら一緒にお風呂……はいろ」
そう言って覗いてくる瞳に、もしかしたら自分の考えていたことが全て彼に悟られていたのではないかという錯覚に陥る。
「そんで、さっきの仕返しするから……」
「し、返し?」
「うんそう」
そういって微笑む彼の表情からは矢張り何も読めなかった。
何かしたかなぁ、という思考はうかんだ瞬間再開されたキスに簡単に吹っ飛んでいった。
とりあえず帰ったらどっちみちお風呂に入らなければならないらしい。
アトガキ
”さっきの”=羞恥プレイ
御本家『雨の日』から妄想。
レインコートのジメジメ感は異常