しまった、と思った時には既に遅かった。
 イタリアで同じ恐怖を昔経験した。既視感に目眩がする。
 その時の決意が今の日本を作っているのは確かだが長時間の飛行による疲れのせいかうっかり失念していたようだ。
 胸のあたりのシートベルトを両手で握る。
 「日本…? 寝てていいよ」
 更にスピードをあげたギリシャが速度に反比例してのんびりと言った。
 眠れるわけがない。



 仕返し



 飛行機に乗っただけで眠れなくなる神経のか細い自分である。
 それがどうして今この状況で眠れるというのだろうか。
 日本は助手席に縮こまり顔をひきつらせていた。
 つい先ほど空港に到着し、迎えに来ていたギリシャの車に乗り込んだところだ。
 長時間のフライトの疲れと時差ボケからきていた眠気はしかし既にふき飛んでいる。
 今自分の左で運転しているのは紛うことなくギリシャである。長身・がっしりとした体躯の割りに猫好きでのんびりしたという印象の強い男だ。
 ハンドルを持つと性格が変わる、というワケでもないだろう。実に今も彼は日本を気遣い寝るように促してくれている。
 その催促に殆ど返事をせず、もといできずに日本は前方を睨みつけていた。
 近い、前との車が異様に近い。
 目の前に迫ったバックナンバーは今にもヘッドと衝突しそうだ。横目で速度計を見れば悠に100を越えたあたりで針が揺れていた。
 その上、目の前の車は天井に自転車を載せているのだ。固定具はというと見えないところにあるのかつけていないのか見当たらない。
 もしも落ちてきたら、なんて考えれば最悪だ。フロントガラスが粉々に割れる映像が頭の中にシミュレートされる。縁起が悪い、打ち消す。
 「ギリシャさん……速度、落としません…か」
 「だいじょうぶ」
 何が大丈夫というのか。今隣を追い抜いていった車は更なる速度を出しながらスレスレに走っていったではないか。ここまでくると何故サイドミラーがこすれないのか不思議だ。
 外に延々と続く畑の緑に染まった素晴らしい風景はビュンビュンと後方へ飛んでいく。遠くにある山だけが絶えずその姿を誇示していた。
 「日本……もしかして、酔った?」
 「いえ……大丈夫、です」
 どう見ても車酔いの類ではないことは自覚していた。寧ろ車酔いの方がまだ気がマシか。
 「……早めに着くように、する」
 隣でギリシャがハンドルを切る。入ったのは追い越し車線。
 嫌な予感がして日本が顔を更に青くしているとエンジン音がけたたましく鳴り車が速度を上げた。



 「ん、……早めに着けて良かった」
 予定よりも1時間は早い車内の時計を確認してギリシャが言う。
 助手席では真っ青な顔をした日本が2時間前と同じ格好で固まっていた。
 「日本大丈夫?」
 日本が急に電池でも入ったオモチャのように無言のままコクコクと頷く。
 「大丈夫です……」
 絞り出した声は明らかにひきつり、掠れていた。
 日本の常識は世界の非常識、というが交通ルールまでそうだというのか。神経は掻き切れそうなまでに細まっている。
 自国万歳。やかましい隣人のマネをするわけではないが今だけはそう思う。
 がちゃりと左手で音がして見るとすでにギリシャはシートベルトを外し扉を開けていた。
 窓の外は先ほどの風景からは一転、街の中である。
 アパートのような四角い建物が隙間なく並んでいる。えんじ色のものやくすんだ黄色のもの、落ち着いた色であるのにどこか陽気に見えた。
 シートベルトを外そうと座席脇を探ればかちりと音が鳴ってベルトが巻かれていく。
 ドアに手をかけてもう一度車内を振り返る。
 マニュアル車のシフトレバーに止まっているクーラー、開けっ放しの灰皿、ラジオ、デジタル表示の時計、後部座席はティッシュが1箱程度しか見当たらない。
 忘れ物はない、と判断して漸く大地を踏む。生きてて良かった。
 「日本、ちょっと歩くけど、歩ける?」
 日本のスーツケースを既に荷台からおろしていたらしいギリシャが細まった道の向こうを指さしている。
 「あぁ、はい大丈夫です」
 がたごとと音を鳴らして石畳の上を強行に転がしていくギリシャの後について顔を上げる。
 照りつく太陽が真っ青な空を背景に輝いていた。
 車輪が取れやしないかと心配に成る程音をたてるスーツケースと足音だけがする、閑静なところだった。
 彼らしいといえば彼らしい、喧騒からは離れている。斜向かいのオープンカフェの椅子に猫が二匹、重なって眠っているのが見えた。
 「いいところですね」
 自動車が走らない場所はこんなものなのだろうか、猫の隣の席に座っていたサングラス男に手を振られる。振り返す。
 「うん……ありがとう、日本に言われると嬉しい」
 そのままスーツケースを転がしながら、ギリシャが続けた。
 「ね、日本。俺ん家着いたら」
 「禁煙できているかどうかガサ入れしましょうかね」
 嬉しそうな声を遮ると、目の前の男の歩がピタリと止まった。
 錆びついたような首でゆっくりギリシャが振り向くと日本はわざとにっこり笑って見せた。
 「車の灰皿もきちんと洗いましょうね」
 さっとギリシャの顔が青くなる。自動車に乗っていたときバックミラーに映った日本と同じ顔色をしていた。
 「……努力は認めて欲しい」
 前よりも減ったのだ、と彼は言うがそれでも結果は結果である。減煙はしても禁煙しようとする気はおきないのか。
 「ニコチンは、モルヒネとかの麻薬よりも依存度が高い。…から、煙草を止めるっていうのは麻薬を止めることよりも辛いんだ」
 「では喫煙がどれだけ人体に影響を及ぼすか貴方の家に着いたらじっくり教えて差し上げます」
 抱きつかれる。斜向かいのオープンカフェから口笛が鳴った。
 「……日本はいじわるだ」
 不貞腐れたような声を出す大の男の腕をやんわりと振り解き脇を通って彼が離した自分のスーツケースを取る。
 「さぁ、行きますよ」
 少しは自動車での仕返しもしてやろう、そんなことを考えながら道につっかえる重いスーツケースを力任せに押した。







アトガキ
車がマジで怖いのと喫煙大国を混ぜてみました。
ニコチンが依存度高いっていうのはX-FILEでモル●ーが言ってた。
一萬煙草すえないのでその辺はよく知りません。