あなたに勝利を、成功を



 伝統的に仇敵である隣人に対して日本が宣戦布告を行って以降国内の興奮は昂る一方であった。
 いっそ日本を自国であるかのような錯覚を持った人々が熱狂し、日々新聞を連ねた。皇室から一般人までが皆日本に関心を寄せ敬慕の念を募らせていた。
 その熱狂は勿論トルコ自身にも伝わっていた。連日寄せられる戦況や新聞での報道、また街の声はアジアの旭日の卓絶した武勇義侠を絶賛している。 


 遼東半島を占領に成功し、奉天までロシアを退けた彼、日本は今も軍服姿に身を包み背筋を伸ばして自分の目の前に座っていた。
 自国の熱狂の中トルコが日本に会いにきたのは別段憧憬が昂ったからではない。仕事の、殊にスルタンが以前から欲している日本との条約締結の話し合いのためである。
 条約案は作っては消し提案しては流しを繰り返し難航していた。お互いの利益の折り合いがなかなかあわないのだ。
 この戦争の中会見の時間が得られたのは幸運なのだろう。トルコは仮面の狭い視界から黒い海軍服の日本を覗き見た。
 条約の話は一度トルコが本国へ戻ってスルタンと話し合いをつけなければならないのでこの場ではこれ以上話し合うことがないのだ。思ったよりも余った時間を持て余すように日本の広い家の一室で出されたお茶菓子を摘んでいた。
 つるりと研磨され磨かれた重々しいちゃぶ台に畳、縁側、その向こうに日本自慢の庭が見える。
 「静かだなァ」
 ぽつりと呟いた言葉は口元を覆う布によってくぐもったに関わらず響いた。
 「ここを建てる際なるべく喧騒から離れた位置を指示したので」
 「日本さんは、五月蝿いのは苦手で?」
 ちゃぶ台に肘をついて頭を乗せる。仮面が邪魔をしてなかなか手に収まらない。
 「苦手というか、……まぁ、あまり好きな方ではありませんね。祭囃子などは別なんですけれども」
 日本が首を傾げれば艶めいた黒髪がさらさらと流れた。
 「……正直不思議だったんですがね。この静けさ」
 トルコが腕をのばしながら背筋を伸ばす。日本は黒い目を何度か瞬かせた。
 「いやね、家に祈祷師でも呼んで戦勝祈願してるもんだと思ってたんですよ。俺ァ」
 「変ですかね?」
 トルコがここを訪れた時感じた違和感は静か過ぎることであった。普通何らかの宗教を信ずる国である場合、戦争へ突入し次第国を挙げて神へ祈りを捧げるのが通例だとトルコは信じていた。それが今回のような国家の命運をかけた戦いであるのならば尚更だ。
 教会からは連日祈り声が鳴り響き国のトップの家では祈祷師などを呼んで私的に戦勝祈願をさせる。
 それがどうだろうか。今この家は葉の一枚が落ちる音さえ聞こえるほどに静かなのだ。
 「まぁ、普通はお祈りでうるさいですね。現に今日本さんと戦争してるロシア、あいつなんか国中の教会に日本さん呪わせてるっつう話だい」
 「されていたとしても不思議ではありませんね」
 その言い方はするりと流れていく。他人事のようだ。
 日本は無神論者であったかと言われれば確か違った筈である。れっきとした彼の上司を中心とする、神道と呼ばれる宗教を国教に定めている。
 そこらに寺院・神社はあるし祭事の際は神への祈りが捧げられるのを知っている。
 しかし今の日本を見る限り少なくともそのロシアの呪いに対抗しようとは思っていないようであった。
 関係はないとわかっていてもあまりに悠長すぎて逆にこちらが不安になってくる。
 「差し出がましいの承知で言わせて頂きますが日本さん。お祈りに何故行かれないのですか?」
 訝しげに言えば日本は怒ることもなく口元に小さく笑みを浮かべた。

 「あなたの祈りだけで神様には十分届くでしょう」

 静か過ぎる部屋に響いた言葉に、ぐ、と息が喉に詰まる。
 仮面の奥から日本を見るとやはり微笑んでいた。
 「あなたが私の為に日々祈って下さっていることは知っています。こんな極東の島国のために本当にありがとうございます」
 「あー……うん」
 秘密にしていたわけではないが、知られているとは思わなかった。
 国民が日本の勝利を応援すると同様にトルコも仕事の合間には神に祈りを捧げた。
 日本がロシアを打ち負かしますようにと。
 「あなたが祈って下さる限り私は敗北するわけがない」
 今ほど仮面をつけていて良かったと思ったことがあっただろうか。
 彼の一言一言を聞くたびに頬がどんどん緩んでいく。微熱をもったように顔に体温が溜っていく。
 どうしようもなく、嬉しい。
 「私は果報者です。あなたのような」
 「待って、日本さん待って下さい」
 これ以上嬉しくなると心臓がどうかしてしまいそうだった。慌てて言葉を遮ると日本は不思議そうな顔をした。
 「すみません、お嫌でしたか?」
 「違う。そうじゃなくてですね……」
 なんでここでいきなり引くのか。気性だとわかっているがこの腰の低さは慣れない。
 トルコは日本にそのままでいる様手振りしながら立ち上がる。
 規格が違うせいで天井が低く感じられるが、頭がつくほどでもない。
 ちゃぶ台に沿ってぐるりと回り、日本の座っているすぐ横に膝をついた。
 日本がトルコと対峙するように居住まいを直す。
 「果報者はアンタにこんだけ信頼されてる俺のほうです」
 膝に置かれた黄色い、同じ人種の色をした手の上に自分の手を重ねる。
 重ねてから、自分の手袋を少しだけ恨んだ。
 「日本さん、あなたに勝利を。俺はいつも祈っている」
 日本は少しの間目を丸くしてトルコを見つめていたが一度瞠目し、微笑むと自らの空いている手を更に重ねた。
 「それでは、私はあなたの成功を」
 そう言って世界最強の陸軍との決戦を控えた極東の国は墨を流したような瞳玉を細めて笑って見せた。

 それを見て不意に彼に口付けをしたくなる。
 しかしそれは口元の仮面があることにすぐに自制された。
 常時つけている仮面だが、褒めたい半分恨めしい。
 どうしようにも彼が目の前にいると余裕や思考や全てが吹き飛んでしまう。 

 これ以上惚れさせないでほしいと思うがこれからもずぶずぶとこのアジアの旭日に嵌っていくだろう自分を想像すると、笑いがこみあげてきた。






アトガキ
本読んでたらやたら萌えたので。
日露戦争時のトルコの新聞より
『日本人になぜ寺院で戦勝のお祈りをしないのかと尋ねると、トルコ人の祈りだけで十分聞き届けられると答えたという』

なんだこの両想いは。