My lover!

この犬畜生め!




 「テメェェェェこのあっちぃ中寄ってくんじゃねえよ! ばか犬め!」
 そう言いながら光速で愛犬の頭を撫でているプロイセンを見ながら日本は麦茶の中で氷がたてるカラカラと涼しげな音を聞いた。梅雨があけた今、夏がもうそこまで来ている。


 昔は何かと世話になったこともあり、プロイセンは日本の家には数回訪れたことがあった。日本の近代幕開けとなる時代で兵の指導を頼み込んだこともある。しかし歴史の中で"現代"とカテゴライズされる近年は関係性も薄れ顔を見ることも少なくなった筈であったが、それに関わらず先日から彼の来日頻度は目に見えて増えていた。普段はドイツがこなしていた公式業務を何故か彼が担当することになり私的な旅行であっても必ず日本の家に寄るようになっている。
 目的は火を見るよりも明らかで、彼が今目を輝かせて構い倒しているそのふさふさの長毛にまみれた犬だ。ぽち君、日本はそう呼んでいる。どうやら先日たまたま彼が日本宅へ訪れた時に一目ぼれしてしまったらしい。以来オモチャやお菓子を持参してはぽちの遊び相手になろうと必死だ。
 今日も小さなゴムボールを持ってきたらしく「あっち行け!」と言いながら部屋の向こうに放り投げてはぽちに取ってこさせている。青いボールを加えて嬉しそうに戻ってくると「戻ってくんな!」と悪態をつきながらまた頭を撫でる。その表情はいわば自分の赤ん坊を見る時の子煩悩な父親と共通するものがある。とにかく嬉しそうなのだ。口から出てくる言葉とは裏腹に全力で可愛がっているようにしか見えない。
 「そういやお前四つ目の白足袋だよな」
 駄犬駄犬、と言ってプロイセンは高笑いする。ぽちは貶されていることも気付かず小さな尻尾を揺らしていた。
 こんな孫がいて、自分がそれを眺めながら麦茶をちびちび飲む老僕であったならその人生はさぞ幸せだろう。ふと思いついた考えに笑いが漏れる。国家として生まれついたことに全くの不平不満はないがときたまにこういった人間の穏やかな人生なるものを夢見る時がある。逆に穏やかな人生を歩む者にとっては国家の一生が羨ましいかもしれない。無い物ねだりは動物の性分だろう。
 「何一人で笑ってんだ気持ち悪ぃ」
 「いやスミマ……ぽち君でぐりぐりすんのヤメて下さいませんか」
 「ハハハ暑苦しいだろハハハ!」
 いつのまにか日本の横へ移動してきたプロイセンは、彼の両手の中にすっぽり収まったぽちの胴体を日本の腕にぐいぐいと押し付けている。当のぽちは前足を日本の腕に乗せて嬉しそうに小さな舌を出しているので(きっと押し付ける力も加減しているのだろう)問題はないのだが確かに湿気の強い初夏にはぽちの長い毛は暑いかもしれない。冬は湯たんぽに丁度いいのだが。
 「もーやめて下さいよー」
 力を加えられるがままに体を斜めにしながら日本が緊張感なく口を尖らせる。本気で嫌がっているワケでもないのをプロイセンは察知しているようで、尚も一人笑いを続けながらぐいぐいと日本を棒倒しの棒のように押し倒していく。畳に対して六〇度程の角度になった時、日本はバランスを崩して腕を畳についた。その拍子に正座していた足が崩れる。プロイセンもまさか倒れることは予想していなかったらしくそのままぽちを間接して圧力をかければ簡単に日本は陥落した。寄る年波の何とやら、日本は老人だと自覚していたものの少し悲しくなる。
 頬に畳の跡がついたら嫌だなぁ、と首を動かせると頭の方で犬特有のハァハァという小刻みな息とい草を踏む小さな足音が聞こえた。どうやらぽちを解放したらしいプロイセンは我が物顔で日本が先ほどまで飲んでいた麦茶をうめぇなどと感想を呟きながら飲んでいる。
 「もう、やんちゃが過ぎますよ……」
 これでドイツよりも年上というのだから不思議な話だ。傍若無人な態度は昔から変わらないができれば少しぐらい落ち着きをもって欲しい。通信簿に教師が書くようなコメントを頭の隅に追いやりながら日本は起き上がろうと腕をつく。立てた腕が畳から引き戻されて日本は下腹部に重圧を感じた。よくよく見れば馬乗り、所謂マウント・ポジションを取られていた。
 「てめーなんかこうしてやる!」
 ハハハハハ、と高笑いが聞こえてプロイセンの白い手が日本の目前に近づいてきた。それは日本の頭を掴むようにこめかみあたりに置かれ光速で撫で始めた。くしゃくしゃと髪の毛が耳の上で擦れる音がする。年老いてからは撫でられる機会はそうそう無くなったが、これはどちらかというと撫でているというよりも頭の上で他人の手が俊敏に往復しているだけである。視界が悪くなっていくだけではないか。
 「プロイセンさん、ちょっ、もう!」
 「うっせーこの童顔!」
 童顔というのであれば自分も人のことは言えないくせに! 喉まで出かかった言葉を日本は危うく飲み込んだ。これを叫ぶのはできれば間合いをとってからにするのが賢明だろう。
 プロイセンの撫で攻撃が止んだのはワフ、と日本の頭の先で少しばかり低い鳴き声がしてからだった。ううう、とくぐもった唸り声がしてプロイセンはやっと日本の上から退いた。何を感じ取ったかは知らないがぽちが牽制をかけたようなのは日本からは見えないがすぐに気付く。起き上がって見ると僅かに小さな牙を剥いた小型犬が顔に皺を寄せていた。
 「なんだこのぽち公! 俺様とやるってかよ!」
 いかにも漫画の悪役があげそうな笑い声をあげてプロイセンがぽちの頭をくしゃくしゃと撫でる。一瞬耳を下げてびくりと体を震わせたが日本がくすくすと笑っているのに気付き闘争心が消えたらしくまた尻尾を振ってプロイセンの手を舐め始めた。
 犬でも空気読むんだなぁと日本は空になったグラスに気付き腰を上げた。夕飯は何がいいですか、と聞くとわさびの入ってないスシ! と高らかに返ってくる。日本は善処しますと答えて高らかに笑う大の男一人とペットを置いて部屋を出た。





アトガキ
日本(おじいちゃん) プロイセン(孫) ぽち(犬)でした。
急にプロイセンがぽちに悪態吐きながら全身全力で構ってる話が書きたくなったので…。
「自ら急所を晒すとはばかめえええええ!」と叫びながらぽちのお腹を撫でまくるプロイセンだと思っています。ばかは私だ。