半鐘の音に合わせて塹壕からのろのろと這い出てきたロシアは、服についた埃を払う。
 ぐるりと辺りを見渡せばそこは非道い惨状で空薬莢と同じように血を流した同胞と敵軍の兵士が転がっている。
 血と硝煙と焦げた肉の混じった臭いが鼻につく。
 遺体回収作業が始まると同時にロシアはゆっくり穴から離れた。



 束の間の



 人気の無い小高い丘のような、見晴らしの良い場所だった。その上で目下を見下ろしながらちびちびと瓶から酒を飲む日本が居た。
 ところどころ煤のついた板を下に敷いて座っている。黒い髪も軍服も顔も、煤にまみれていた。
 「日本君見っけた。隣いい?」
 ロシアは板の余ったスペースに無理矢理体を捻じ込んでどっかりと座る。正直歩き疲れていたため座れるのは嬉しい。
 「いやだって言ったら退くんですか?」
 「どかないよ」
 見上げてくる黒い眼を見ながらロシアはコートの中を弄ってカーブウイスキーボトルを出した。
 日本はそんなロシアを見て諦めたのか、はなから咎める気もないのか、ため息だけついて視線を戻した。
 彼の視線を辿ればぽつぽつとかがり火が焚かれた戦場で何人かの兵士が忙しなく動き回っていた。
 今はまだ夕暮れ時で夜に比べれば見通しが利いた。それでも薄暗闇の下では影が動いているだけでどちらの兵なのか見分けるのが難しい。
 手に嵌めたゴツい手袋を外してボトルキャップを開ける。一口含めば温いアルコールが流れてきた。
 日本は無言のままで何が楽しいのか、下を見つめている。水筒のようなものの蓋に透明の酒を流してはそこから少しずつ啜るのが好きらしい。
 今まで至近距離で機関銃や大砲が轟音をたてていたせいか耳が痛い。いや、戦争時と今のギャップが激しいせいか。
 「一口頂けますか?」
 「ん?」
 今まで黙っていた人間の方に目を向けるとそれ、とウィスキーボトルを指さしていた。
 「珍しいね」
 「好奇心ですよ」
 好奇心、というのもおかしい気はしたが気が向いたのは本当だろう。キャップを開けたままのボトルを渡すと日本はそのまま口をつけて、顔を歪めた。
 「交換ね」
 一瞬で固まった日本の手から水筒の蓋を掠め取り何か言われる前に中のものを飲み干す。
 喉を鳴らして飲み込むと適度のアルコールが頭に昇った。
 「ウォッカってまずいですね」
 「君のも程ほどにまずいよ」
 なら返せと先ほど奪ったカップを引っ手繰られる。同時に空になったウィスキーボトルが返って来た。
 「飲まないとやってられない? 旅順は難攻不落の要塞だからね」
 「言ってなさい。必ず攻略してみせますから」
 嫌味で言ったつもりなのに、何故か笑い声が帰ってくる。先ほどから薄々感じてはいたがどうもこの男今日は余程機嫌が良い。
 板が狭いせいか、ロシアの図体が大きいせいか、腕を動かすだけで肩が触れ合う位置というのに一切の殺気が感じられない。
 「……面倒臭いですね戦争って」
 「え?」
 機嫌に乗じてか、酒のせいか知らないが平生よりも饒舌になっている黒髪の男を見下ろす。日本は視線をまた先に見ていた場所へ戻していた。
 下では丁度今遺体の回収作業が行われている。寧ろ遺体回収作業中であるから自分たちはここにいるので、逆か。
 もう一度聞き返しても男は動かずに夕暮れの中あくせくと動き回る男達を眺めているばかりで答える気配はない。
 「日本君」
 「そろそろですね」
 遠くから半鐘が鳴り響く。それはつまり遺体回収作業の終了時間。あと数分で陣地に戻り、そして戦闘を再開しなければならないのだ。
 「それではロシアさん。それありがとうございました」
 それ、と指さされたのは空になったウィスキーボトル。日本はゆっくり惜しむように立ち上がって傍らの刀を持ちかえた。
 「君も、ショウチュウ? ごちそうさま。甘ったるかったけど」
 同じようにロシアも立ち上がる。ウィスキーボトルをコートの中にしまって日本を見た。
 戦場で見る兵士を指揮する鬼神の表情が色々な感情の混じった笑顔で複雑そうに笑っている。
 「死なないで下さいね」
 「君こそね。うっかり機関銃掃射に当たったりしないでよ」
 「そんなドジは踏みませんよ」
 それでは、と軽く会釈をして日本がさっさと陣地に戻っていく。
 夕暮れの朱色に染まった大地が血の海を思わせる。
 今からあの血の池地獄に戻って戦争を再開させなければならないのかと思うと折角の上々の気分が陰鬱な陰を見せ始めた。
 「面倒臭いなぁ…」










アトガキ
日露戦争中は戦闘中、間に両軍で休憩時間(遺体回収作業等)をきめて途中途中休憩してました。無論その間は攻撃しちゃダメ。
で、その間にわらわらと塹壕から出てきて日露両軍兵士が身ぶり手ぶりで雑談したり酒を飲み交わしたり食糧交換したりしてたらしいです。
まだ総力戦じゃないこの頃、戦争とはいえほのぼのするなぁ。