the Mediterranean

弔魂の鐘



 弔魂の鐘の音が寂しく響いて一筋の煙が青い天へと昇っていく。
 小さな港町の小さな教会、その隅にある墓地を前に軍服姿の日本は立っていた。グラデーションのかかった初夏のスカイブルーと青々とした伸びやかな芝、煌びやかなビビッドに映える白い教会を背景に立ちすくむ薄汚い東洋人は世界から隔絶されているようだった。彼の黒い服は潮でべとべとしていたし煤と油が幽霊のように青白い肌にこびりついたままでいる。頑丈な生地である筈なのに戦闘中に負ったものか、袖が切り裂かれ・または焼け焦げてそこら中ぱっくり開いている。その間から見える肌には多くの傷が滲み赤黒い痕を残していた。ところどころ血の流れた跡があるが全て黒く固まってしまっている。彼に近づくと彼の纏う潮のにおいが香った。数時間前爆発による水柱を頭から被ったらしいからそのせいだろう。潮のにおいは嫌いでない筈なのに何故か空気の塊のような不安がぼんやりと胸の中で膨らむのがわかった。
 日本は水気が抜けて絡まった黒髪をそのままに頭を垂れて目を閉じている。並びの良い白い歯が下唇に食い込み赤い血が滲んでいる。固く握った両手は時折痙攣するように腿を叩いた。一発己を撲つ度に鈍い音がしてしかしそれはすぐに鐘の音に消されていった。
 「……日本」
 ギリシャが名前を呼んでも依然世界から切り取られたままの海軍将校が後悔の蟻地獄から帰ってくる様子はない。
 刈り忘れられた長い芝を踏みながら彼の眼前に回りこむが反応はない。平生日本はパーソナルフィールドが極端に広く容易には近づかせてくれないのだが今だけは精神がどこかへ飛ばされてしまっているようだ。間近に見る小さな男は今にも冥府に引きずり込まれそうな表情をしている。
 「日本」
 そっと、猫を撫でるよりも優しくその頬に触れるか触れないか、電流実験で電気を流されたマウスのように即座に反応した日本が顔を上げた。ブラウンがかった黒い瞳に一瞬憤怒の炎が混じってやがて消える。はっきりとギリシャを映すと目を伏せた。
 「ギリシャさん……どうか、なさいましたか?」
 「ううん。……ただ、日本が……心配で」
 苦しそうな声で日本は申し訳ない、と囁いた。その声に泣き声が混じっているのをギリシャは気付かない振りをして添えた手を離す。
 「仲間を失うのは……苦しい。……うん。苦しくて、非道く哀しい……榊は、俺にとっても英雄……だった」
 榊、その名前を聞いて日本は必死に低い嗚咽を噛み殺す。
 犠牲となった地中海の守護神。魚雷のせいで甲板は捲れ上がり艦橋はひしゃげ炎を噴きあげ、多くの乗組員達を葬った。日本の目蓋にフラッシュバックするのは船底から甲板を貫いた魚雷が日本に照準を定めるように止まっていた姿。舷近くで水柱が立ち上がり腕や脚を無くした元同僚達がごとんごとんと大きな音を立ててデッキに降ってきていた。地獄絵図を現世に持ってきたような耐え難い状況。恐怖と、不安と、悔恨とで頭がパンクしそうになった。受け入れたくない現実が脳内に灼けついて離れない。
 日本が咄嗟に口を両手で覆うのを見てギリシャはもう一度手を伸ばした。擦過傷の残る首筋を撫でて小さな肩に手を回す。ぐっと引き寄せてボサボサの黒髪に頬を寄せると潮に混じって微かに血のにおいがした。抱き寄せられた方の日本は華奢な身体を強張らせて、しかし重心を無くしてギリシャに縋るように浅黒い筋肉質な腕にしがみついた。
 「泣けない、なら……恨めばいい……トルコを、ドイツを……榊が被雷したのは、ドイツが作ったUボートのせい……。地中海にUボートが頻発するのは、トルコのせい。憎めば、楽になる」
 「……それは、……できません。憎むことは、できない」
 日本が地の底で這うように呻きながら首を振る。
 聖者であるまいし、ギリシャは言いかけたが咄嗟に口を噤んだ。
 「不器用すぎる……。人前だから泣けない、かといって……誰も……憎めないなんて。あまり哀しみを内に篭らせるのは、良くない」
 「憎悪の念を悪だとは思っていません……ただ、」
 ギリシャは腕に痛みを覚えて顔を歪める。日本が爪を立てて獣のように唇を戦慄かせていた。初めに見た激しい怒りが彼の目に宿っている。
 「仲間を奪ったドイツさんが憎い。その手引きをするトルコさんも憎い。私を地中海に呼び寄せたイギリスさんが憎い。血を流すことを知っていながらのこのことやってきた自分が憎い。……トルコさんの隣人である貴方も、憎い」
 「日本……」
 「何かを憎めば寄せる波や鉄釘一本までが憎くなってくる……。私のような老僕には今世界の全てを憎む気力なんてない」
 爪をたてるのを止めて日本は暗い瞳を閉じる。腕をだらんと垂れて身体を重力に任せた。
 「今はただ、悲しむだけで精一杯なんです」
 ギリシャは小さな身体を抱きしめて彼の頭を自分の左肩に押し付けた。袋小路に自ら嵌る彼は目を閉じて物悲しい鐘に耳をすませる。程なくして彼の口からごめんなさいごめんなさいと謝罪の言葉が流れ出てもギリシャは抱きしめ続けた。





アトガキ
WWT中の奮戦っぷりから地中海の守護神と歌われた第二特務艦隊。
この『榊』の運命は波乱すぎて調べてみるとかなり面白いです。それにしても毎回被雷の現場が阿鼻叫喚すぎて背筋が寒くなります。
小説を書く際にはいつも誰かを悪者にしないように、逆に誰かを善者にしないように気を遣ってはいるつもりなんですが難しいですね。