1.民間人



 荒々しくドアを叩く音がする。
 日本は無意識に傍らにあった刀に手をやった。部屋の照明は心もとなくベッドサイドに置かれたロウソクの炎が揺れているにすぎない。簡素な異国の宿、治安は自国と比べると宜しくないと聞いている。じっと息を殺すとどんどんという音に紛れて威勢の良い声が飛んできた。
 「日本、開けてくれやぃ。フランスに話は通してあんだ、居留守はきかねぇぞ」
 聞きなれた単語を二つ拾って日本はのっそり立ち上がった。自分を国名で呼ぶこと、三人称でフランスとくれば同業かそれに近しい者で決定的だろう。だからといって警戒を解くまでは至らないが相手の正体が絞り込めるのは嬉しい。
 「はい」小さく一言発しただけで迷惑な騒音は止んだ。最近購入したばかりのエナメルの靴が毛の長い絨毯を踏みそろそろと扉へ近づく。片手で鍵を開け、ノブを回す。ぼろい木の板が小さく軋みをあげながら廊下の光を部屋に取り込んでいく。
 軍服姿の大男がそこに突っ立っていた。日本は咄嗟に鯉口を切って刀を握る。……握って、そこで踏みとどまった。
 両手を離し刀を床に落とす。手のひらを相手に向けてポーズを示すと男も腰に下げたサーベルから手を離した。異国の地ということで気が昂ぶっていたかもしれない。日本は思う。危うく宿で知り合いと一戦交えるところだった。
 「結構、結構。アンタの殺気ぁ身が震えるねぇ」
 「申し訳御座いません。トルコさん」
 気にする素振りもなくトルコは快活に笑って日本の肩を二度叩いた。

 日本はトルコを部屋に招きいれ再度しっかり鍵を閉める。設えのロウソクに何本か火を点した。茶葉が日本茶しかないことを断っていそいそと湯を沸かし始める。
 トルコは房のついたトルコ帽を脱いで窮屈そうな軍服の襟を緩めた。顔を覆う仮面は外す気はないらしい。チェアーに深く腰を下ろしてちょろちょろと狭い部屋を移動する日本を眺めていた。
 「こっち来たんなら、一声かけてくれりゃぁ良かったのに。そうすりゃもっと早く会いにきたってもんだ」
 「トルコさんお忙しいでしょう。今だってそうやって無事に見せてますが体も国土もボロボロじゃないんですか」
 緑茶入りの紅茶ポットを揺らせて日本が答える。視線は白い湯気を口から小さく吐き出すポットに注がれたままだ。トルコは否定せずに代わりに鼻を鳴らすだけだった。
 「今まで貴方が私に散々嫌いだいけ好かないと仰っていたロシアさんと手を組んだそうですね。逆に言えばそれ程に追い詰められているのでしょう?」
 「日本よォ、外交の本質ってもんは利用できるもんは使うってこった。感情論のみじゃぁ国は動かねぇんだい」
 「おや? 今回のギリシャ軍掃討作戦は感情論ではないと?」
 「元々アイツから仕掛けてきたことだぜ? アレが強突く張るからいけねぇ。さっさと俺ん家から邪魔モンを追い出したいだけでぃ」
 日本は並々と茶の注がれた取っ手付きカップを二つ、チェアー脇のデスクに並べた。どうぞ、と手で軽く促し自分も肘掛椅子を引っ張り出してきて座る。
 「あぁーったく、ヤメようぜ、お日様ぁ沈んであんなガキの話は興が殺がれるってんだ」
 トルコが大仰に頭を振る。うんざりだと言いたそうにため息をついて膝を叩いた。
 「ヨーロッパ大戦がやぁっと終わってよぉ、久しぶりにアンタと会えたと思ったら口に出るのはアイツの話題。耐えらんねぇやい」
 肘掛椅子から乗り出してまだ湯気の昇るカップを手にすると、日本は少し困ったような顔をした。それは嫌悪よりも戸惑いに近く道に迷った人間が標識を探すような顔に似ている。不相応の入れ物に入った緑茶に口をつけて元の人当たりの良い表情(米国曰くただの無表情)に戻した。
 「……私は今回、民間の船に乗り民間貿易に来ているんです。民間人ホンダキクらしい話題にしましょうか? 最近の景気はどうだとか、何が流行っているだとか、最近うちの家の筋に出来た饅頭屋さんがおいしいだとか」
 「民間人だぁ?」
 一瞬トルコの動きが止まった。仮面の奥からでも感じていた好奇の瞳がその一瞬だけ色を失う。その一瞬後、日本が一度瞬きをする間にはトルコは狼のような笑みを浮かべていた。
 「わかった、じゃぁ今からお前さんはただ一般の商人だな。俺が本気出して口説いても国際的には問題の無ぇ普通の日本人だな?」
 「……外国の商人を口説くのにその軍服は如何なものかと」
 「脱げってか? 積極的だなぃ」
 「貴方ねぇ……」
 「おうおう、冗談だ冗談。アンタぁ昔っから生真面目でぇ、ついからかいたくなっちまう」
 トルコが愉快そうにけらけらと笑い出す。一頻り笑うと不服そうに唇を結ぶ日本を見て律儀に片手で非礼を詫びる仕種をした。
 しかしすぐに喉で鳴らすような低い声でこう付け足す。
 「本当にアンタがその気だったんなら今の言葉は撤回してもいいがな」
 「強突く張りはどっちですか、もう」
 眉を寄せて呆れたような声で日本が呟く。少し温くなった茶の残りを飲み下し、脇にあったロウソクの一本を消した。更に深まった暗がりの中で商人は艶やかに微笑んだ。