2.エーゲの真珠




 スミルナ、エーゲ海に突き出したアナトリア半島の先にあるその港湾都市は混乱に包まれていた。
 ギリシャはその有様を眺めながら唇を噛む。焼け爛れそうな心臓が胸の中で跳ねまわる。腹では胃が雑巾のように絞られ胃液が喉まで伝って来る。喉からの酸の味と臭いのせいでくらくらと眩暈がする。最悪だった。
 今ならトルコを殴れると意気込んだのが遥か昔のように思える。失敗した。戦線を延ばしすぎたのは明らかだった。元々軍略自体得意な方ではない。
 ――イギリス……は
 きっと、怒っているだろう。それとも当てが外れて呆れているかギリシャ軍には諦めているか。折角兵器弾薬の調達をしてもらっても本国からここまでは遠い。補給路すらままならず既に部隊はトルコ軍に包囲され各個撃破されていく状況。這う這うの体でやっとスミルナまで逃げて来れたが部隊とははぐれてしまった。再起をはかるにしても何にしても一度ギリシャに戻らねばならない。しかし陸路、イスタンブール方面からのギリシャ本国へ至る逃走ルートは敵の本拠地を大手を振って素通りするも同じで許されるわけがない。残された海路はといえば船が、ない。
 総攻撃まで時間が迫っている。アナトリア半島に残存するギリシャ人を駆逐するためにここスミルナに狼が駆けてこようとしていた。
 建物は硬く閉められ港では異国船が自国民を収納すべく人の波ができている。彼らは希望があるから、いい。そもそもトルコの標的は彼らではないから、巻き添えさえくわなければいいのだ。
 不安と希望がちらつく。勿論不安の方が大きい。このまま捕まって死ぬのではないか、屈辱に晒されるのではないか。それでも一片のおぼろげな希望が心の底にへばりつく。何か奇跡が起こって助かりやしないか。トルコの気が変わるのではないか、トルコが頭痛でも起こして撤退するのではないか……。
 短い息を吐いてギリシャはその場に座り込む。彼を気にする人はいない。白壁に身を寄せて顔を伏せた。歯を食いしばって目を力いっぱいに閉じる。
 怖い。
 座り込んだ瞬間から、今まで隠していたはずの恐怖が胸の内をせりあがってきた。冷静さを保っていた筈の脳は麻薬に侵されたように思考が飛ぶ。死の淵に立たされているのに一歩も動けない。情けなさと恐怖と不安がぐるぐると混ざり合う。
 怖い。
 内臓を冷たい指が絡めとりじりじりと締め付けてくる。無意識に震える手が止まらない。
 ふ、と聴覚を掠める音にギリシャは思考を止めた。遠くから聞こえる低い音に神経を尖らせる。初めはズ、ズ、という小さな微かな音、やがてそれは地鳴りに似た響きに変わり音として拡大していく。軍靴の音が近寄ってきている。
 鬨の声、鯨波、咆哮、喊声、それらに混じる行軍歌。
 時間が来てしまった。ただ恐れ戦いていただけで貴重な生きていられる時間を消費してしまった。
 もよおす吐き気や嗚咽を飲み込んでギリシャは蹲ったまま荒い息を吐いた。心理的圧力に圧迫される肺で必死に息を吐く。髪にこびり付いた煤と泥の臭いは既に気にならなくなっていた。
 生きられる可能性にしがみつくべき、勿論海に飛び込んでどこかへ逃げるのは容易いことではない、しかしそれ以外は全て死の道だ。海に飛び込むべきだ。そう強く思っても鈍重な体が動かない。恐怖を前に萎縮しているのか。声すらもあげられない。
 そうしている内にも灰色い狼が迫ってきていた。