3.前進せよ。目標は地中海




 わっと、一斉に鬨の声が響く。司令官の号令に触発された戦士達が目を輝かせて自らを鼓舞している。
 突如冷えた空気が喉を通った気がしてトルコは顎を触った。戦法は時代と共に変化しても戦いの前の空気、特にこの胸のうちを這うような冷気はいつまでも変わらない。頭が冴えていくような鈍っていくような、体が火照るような冷めるような、理性の根っこが本能に目覚めるような不思議な感覚。
 今日は悲願の日だ。いや、復活の日とでも言おうか。今か今かと棺桶の中で待ちわびた再生の日。土をかけてやろうとスコップを手にしていた男どもの喉元に喰らいつく絶好の機会。最高の愉悦。心臓が歓喜に震える。ざわざわと肌が粟立つ。
 独断的にアナトリアを手中にしようとするイギリスのおかげでことは簡単に進んだ。ロシアは敵の敵方式で味方となりフランスは反発を覚え近づいてきた。イタリアは少し脅せばさっさと帰っていった。残るはイギリスに手引きされた餓鬼一人だ。
 これまで貧弱だった兵力は蓄えた。軍備はフランスから購入し多くの志願兵を得て増幅してきたこの軍隊は今やギリシャ程度を追い出すのには勿体無いほど強固なものになっていた。
 軍楽隊の勇壮なメフテルが鳴り出すと隊列は徐々に動き始めた。傍らに立つ演説上手の司令官は満足そうな顔をしている。
 あと少し、あと一撃でトルコはトルコとして黄泉返る。
 その後はどうしようか、とりあえずオスマンはやめて新たな体制に変えよう。産業化もしたいし、面倒くさいコーランを暗記するのもやめよう。政教分離にも着手したいし、それよりもセーブル条約撤廃が先か。
 その後、その後でトルコが国として胸をはれるようになったら日本に会いに行こう。昨晩アジアの西端の安宿に居た日本を思う。一介の商人と言っていた彼はもう安全な場所へ退避しているだろう。もっと多くのことを話したかった、多くの時間が欲しかった。しかしそれは今はまだお預けでいい。今さえ終わればいくらでも時間は作れるだろう。楽観的なのはエジプトにでも毒されたか勝利を確信しているせいか、トルコは首を捻ったがすぐにどうでも良くなった。
 「トルコさん、お時間です」
 部下の声がする。進軍の準備ができたのだ。
 トルコは部下の神妙な、緊張した面持ちを見て笑い出しそうになるのを抑えた。しかし口元の笑みは広がりやがてチェシャ猫のように歯をむき出しに笑うのを止められなかった。
 「これが歴史の瞬間って奴だなぃ。トルコ復活の時が来たってんだ。絵空事の汎ヘレーネスなんざ踏み潰してやらぁ!」
 再起不能の三流国とまで貶められたかつての大帝国が豪気な笑い声を挙げて長いコートを翻しながら壇上を降りていく。仮面の下に隠された眼光はしかとエーゲ海を見据えていた。