4.死の淵で




 何かが其処に居る。
 ギリシャは顔を伏せながらも本能的に察知した。それは気配やにおいとしか表しようがないが、確かに誰かがギリシャの前に立っている。何も話さない。聞こえてくるのは悲鳴とそれをかき消すメフテルだけだ。
 殺すなら、一思いにやればいいのに。
 ギリシャは心の中でごちた。同時に苛立ちが湧いてくる。どうせ其処にいるのはトルコか、トルコ軍の兵士かしかない。
 前に立つ人物の息遣いが徐々に聞こえてくる。冷静で、穏やか、最後に一つ小さなため息をついた。
 「目に入ってしまったからには仕方ないですね……」
 トルコの声とは違う男の声だった。一人でそこに立っている。諦めの混じったような口調で呟くと彼はギリシャの名前を呼んだ。二、三度繰り返しギリシャがそれでも動かないのを見てそっと肩に触る。
 反射的にギリシャの体が動いた。肩に触れる手を掴んで右の拳を敵の眉上にあたる位置に突き出す。ひゅっと空気を切る音だけがして強い力で掴まれた。「ギリシャさん、ギリシャさん! 私を見なさい! 落ち着いて!」死の淵に追いやった相手に落ち着けなどよく言えたものだ。歯を軋ませて男を睨み付ける。
 黒髪が見えた。ダークグレーのシャツを着た予想よりも小柄な男。必死にギリシャの視線を捉えようと目を見開いている。
 トルコ帽を被っている訳でも仮面をつけているわけでもない、ヨーロッパの人間でもない、よく知っているわけではない。しかし名前は知っていた。日本。極東の島国で、イギリスと同盟を組んでいて、ヨーロッパ大戦中はマルタ島に居た。昔トルコを助けた国。条約を結んだ時と大戦中に数回、あとは新聞の中でしか知らない日本が居た。悪印象は、ない。どちらかと言うと先の大戦の地中海での彼の活躍は好ましい。だからといってとりわけ好い心証があるわけでもない縁遠い島国。それが目の前に居て、声までかけてきた。
 「……何?」
 ぶっきらぼうに引き出された言葉はそれしかなかった。日本の腕を解いて間合いを取る。退路を横目で確認して立ち上がった。
 日本は体勢を立て直すと埃を払うような動作をして何かを決意したようにギリシャを見た。
 「助けましょう、貴方を」

 助ける、確かに彼はそう言った。日本に手を引かれてギリシャは港の碇泊所まで連れてこられる。避難待ちの住民でごったがえすそこは数メートル先のはずの船まで遠く見える。排気煙が煙って空気が灰色に、海はエーゲ海らしからぬ濁った緑色に見えた。悲鳴や嗚咽が環境音となってざわざわと耳に触る。人の波にもまれながらも日本の手はしっかりギリシャを掴んでいた。
 やっとのことで桟橋から日本の貨物船に乗り込むとやや騒然とする甲板上で彼は部下を見つけ出し、こう言った。
 「貨物を捨てなさい」
 船員達は呆気にとられたように落ち着き払った態度の日本を見つめていた。見ると甲板上の人員は出航間際の慌しい準備と商品らしい大小数十にわたる梱包箱の運搬に二分されていた。船の形から見てもこの船は軍艦ではない。排水量もたいしてなさそうな中型の貿易船といったところか。日本は冷静に繰り返す。「積荷を捨てて避難民の方々を収容してあげなさい」
 ざわざわと血が鳴るのを感じた。それは感動なのか疑念なのかギリシャにはわからない。ただ臓腑が持ち上げられるような感覚がして涙が出そうになった。日本の後姿を見る。真っ直ぐの黒髪が潮風に揺れていた。
 早く、そう日本が部下を急かすと船員は走って船内へと向かった。暫くして船長名で艦内放送が入る。日本の先ほどの命令と一言一句違わぬ内容に大半の船員達は一瞬足をとめた。
 船上だけが時が止まったように音がなくなった刹那、遠くで小さな水音がした。
 日本はギリシャの手を握ったまま騒々しく動き始めた甲板を掻い潜り金属製のラッタルを降りて中甲板へ出た。閉塞感の強い船の中で狭い通路を通る。途中帽子を被った中年の男と二、三言話しすぐに別れた。奥にある部屋につくとベッドの上にギリシャを座らせ手を離した。
 「用心のために港内に居る軍艦にも連絡してきます。彼らにも同じく救助活動を願いましょう」
 日本は少し焦っているようだった。腕時計を確認し一瞬顔を顰める。
 日本が踵をかえそうとするのをギリシャは咄嗟に腕を掴んで止めた。
 「日本……ありがとう、でも……お願い。トルコに引き渡さないって……言って、欲しい。約束して」
 ギリシャがじっと日本を見る。日本は目を見開いてみせたがすぐにいつもの無表情になった。
 「勝手なようですが、私を信用して下さい。今は何の保証も担保も貴方に渡すことはできません。なので、ただの口約束を信用して頂くしかない。私は貴方を助けたい」
 「せめて、理由……が、わかれば。安心できると思う」
 「貴方が」
 日本の手が伸びてきてギリシャは一瞬身を引いた。
 「死の間際で恐怖に縮こまり狼狽しきった貴方が、私の視界に入ってしまったから。ですかね」
 その手は茶色い髪を優しく撫でた。
 「最初はこの戦争に目と耳を閉ざす気でいたんですが、目の前で困られているとダメなんですよ私」
 優しく苦笑する日本を見てギリシャは唇を噛んだ。今日何度目かの込み上げる涙が、今回ばかりは止めようもなく頬を伝っていくのを感じた。